「価値」を巡って

意外に思われるかもしれないが、私は議論や論争を好まない。というのは、一々誤解を解くのが面倒臭いからである。何かを「指摘」しなければならない、という場合が無数にあるかもしれないのである。

com-postというウェッブサイトで、miyaさんという方から私への非常に長い反駁があり、少し読んでみたのだが、勿論彼を否定することが重要だとか、必要であるわけではない。私は、彼の主張を成り立たせている幾つかの前提を確認することが大事だと思う。

私の理解が正しければ、miyaさんによる私の批判の一番大きな、というか、唯一の論点というのは、ジャズの美学についての私の物の見方が科学主義的に偏向しているから、美学に固有な次元を逸してしまい、顛倒・倒錯である、というものである。彼の言うことが妥当なのかどうかというよりも、その前に前提的に確定しなければならないことが沢山ある、というのが私の印象である。

それはまず、哲学 / 科学 / 芸術の関係である。さらに、主観性 / 客観性 / 第三の次元(共同主観性、間主観性、相互主観性…)の関係である。また、「美学」なるもののステータスであり、「美」と呼ばれる現象がどのように成立しているのか、ということである。

そもそもこういうことの全てについて、まともに議論し、整備してからでなければ、miyaさんの言うような主張は展開できないのだし、だから、彼の言い分が正しいかどうかも検証することはできないのだ。

私が科学主義的であるというmiyaさんの主張は間違っていると思うが、というのは、ごく常識的に考えて、美的経験、美的判断から何らかの主観的、個人的なレヴェルを省くことなどできないからである。確かに私の考え方は客観主義的な傾向が強いとは思うが、それを直ちに科学主義ということはできない。

例えば、かつて私が主張したのは、まともな美学、批評が成立するためには、資料体(アーカイヴ)が必要だ、ということだったが、それは別に科学主義ではなくただの常識である。複数の批評家、複数のファン、複数の聴き手がいて、音楽、ジャズについて会話し、意見交換するとしたら、彼らは同一の対象について考え、語っているのでなければならない。そのためには、勿論個々の作品、記録がなければならないし、それらが系統的に集められたものも必要である。美的判断を巡ってどういう議論をしてみるにしても、そもそも共通の基盤がなければ、どうしてもそれは不可能なのである。

そして、そういうふうに客観化、一般化を目指すとしても、ジャズ、音楽、芸術、美的な対象、美的な経験についての議論や理論が「科学」、数学的な自然科学、物理学などをモデルにした「科学」になることができないのは、そこではどこまでも、美的な経験に固有な「価値」が問題になるからであり、その次元を還元したり消去することができないからである。

「価値」については、存在と価値、というような新カント派の枠組みがあるが、私が言いたいのはそういうことではない。むしろ、こういう文脈で理解していただきたいのだが、同じ「価値」という用語を用いていても、言語学と経済学では意味が異なる。或る言葉、或る単語の「価値」と、或る商品の「価値」を同列に語ることはできないのである。そこにはなんとなく漠然とした類比しかないのだ。

さて、美的な対象、美的な経験、美的な判断において「価値」を問題にすると、それらとはまた全く違う、という事実に気付く。我々が出発しなければならないのは、感性論 / 美学という「エステティック」の二重性である。

そして美的な対象といっても、自然美と芸術作品の美があり、その中間に、愛や性の領域、魅惑の領域、人間身体の問題がある。性的な魅力、誘引力というのは、芸術作品とは違うが、といって、ただの自然にも還元できないものである。ところが、歴史において初めて美の問題を提起したプラトンにとって問題であったのは、そういうもの、つまり、少年の美であった。

プラトンが美について主要に論じているのは、これまた記憶だけに頼った引用で非常に申し訳がないのだが、『パイドロス』であったはずである。そしてそこにおける議論の枠組みを思い起こしてみると、こういうことであったはずだ。我々が、美しい少年に遭遇して、彼の美に心打たれるとする。これは感覚的で感性的な経験である。ところで、プラトン主義の最も重要な部分は、そういう触発の経験から、我々が「美そのもの」、美のイデアに上昇できる、と論じるところである。

そして、細かい議論なのだが、古代世界のプラトンにおいては、我々が考えるような主観 / 客観の二分法はない。プラトンの考え方を確かめていくと、こういうことになる。誰か少年に遭遇して、その彼を美しいと思う、という、最初の感覚的で感性的な触発の契機においては、それは、近代の我々の見方では主観的であるはずだ。つまり、その少年を美しいと感じるのは個々人なのであり、そういう個々人の感覚はどこまでも個別的なのである。ところが、プラトン主義の核心は「美のイデア」を考えるというところにあり、これはもう、主観的なものでも個人的なものでもない。客観的というよりも対象的と言いたいし、さらに、20世紀の枠組みでは「存在」、存在論的なものだと言いたいが、とにかく、ただの相対主義的で恣意的な主観には還元できないものである。

プラトンは、近代の我々ならば、単に主観的で相対的だと考えるようなものについて、「イデア」を考えたのである。「善」、「美」というような価値だけではなく、例えば「大」がそうである。或る事物が大きいのは、他の事物との関係においてであり、そしてさらに、実は、それを知覚する人間にとって「大きい」のである。ところが、プラトンはそういう関係性を捨象してしまい、絶対的な「大」そのもの、「大」それ自体、「大のイデア」を想定する。我々がそれを誤謬と言っても、致し方がない。古代人であるプラトンは、そういうふうに考えたということなのだ。

さて、そういうプラトン主義と、近代以降成立する美学は異なっているのだが、それでもプラトンが設定した二重性の契機は重要であり、2012年の現在に至るまで我々を拘束している。美的な経験というパラダイムはその二重性の拘束を出ることができないのである。それはどのような二重性かといえば、我々を最初に触発するのが感覚的・感性論的な対象、具体的で個別的な対象であるのに対し、「美」を語ることで問題にされるのは、常に「それ以上」の何かである、ということだ。「イデア」を信じないのだとしても、その条件は同一なのである。つまり、純粋に感覚的な要素と、何らかの意味でそれを超え出た部分があるのではないかということであり、もし後者の次元を考慮しなければ、「美」の普遍性は成り立たない。そうすると、「美」の経験そのものが成り立たず、そこにあるのは、ただ単に、快・不快、快・苦、快適、趣味嗜好などであるだけだ、ということになる。そして、個別性、特殊性しかなく、個々人という多様性、差異という次元しかない。それを客観的と呼ぼうと、共同主観的と呼ぼうと、ただの主観や個人を超え出たレヴェルも問題にすることができないのである。

ここで一旦送ることにしたいが、この問題は引き続き考えていきたい。

http://d.hatena.ne.jp/tadashisettsu/20120710