プルードンとマルクス、『哲学の貧困』、『資本論』

マルクスプルードン批判については賛否両論があり、マルクスが絶対の正義であるという教条的な意見から、マルクスプルードンを誤解、曲解しているという弁護論まであるのだが、重要なのは、『哲学の貧困』の後に『資本論』が書かれたということ、そして後者においても別にプルードン批判は撤回されたわけではなく維持されていることである。

プルードンもその全著作が正確に邦訳されてまともに受容される必要があるし、ただの誤解で批判すべきではないだろうが、そういうマルクスの一貫性からは、彼のプルードン批判、プルードンへの異論が、錯覚、勘違い、一時の気の迷いなどではなかったのではないか、ということを窺わせる。

そもそもプルードンの『貧困の哲学』を内在的に吟味・検討できないという条件で、マルクスの『哲学の貧困』をどのくらいまともに理解できるのかどうかは私には分からないが、私なりに読んでみて把握できるのは次のことである。

マルクスが問題にするのは、プルードンリカードウの経済学をまるで理解していない、ということよりも、私が読む限りでは、修辞的に過ぎることが問題だというか、古典派経済学が「価値」などについてまともに論じてきたことを、おかしなレトリックで長々と論じてわけがわからなくしてしまう、というようなことである。マルクスの言葉に耳を傾ければ、それは確かにそうなのかもしれない、と思う。

そして、『哲学の貧困』の段階のマルクスプルードン批判の決定的な論点は、階級対立は非和解的でそれを還元・解消することはできないから、マルクスの言い方では「血塗れ」の階級闘争を避けることは決してできない、というものであり、政治革命を社会革命に還元、解消してしまうことはどうしてもできない、ということである。

それは恐らくそうなのだろうと思うが、『資本論』のような資本制経済を主題にした最晩年の論述において、プルードンとの関係がどうなのかというのは、難しい問題である。ここで少し整理すると、プルードンの"association"をマルクス的に批判する、というのは、政治的な領域と経済的な領域とがあり、分けて考えなければならない。まず、前者からいえば、社会の編成のされ方を組み替える社会変革の実践の主体が、プルードンがいうような"association"、「連合」であるべきなのか、マルクスエンゲルスが考え実践したような、「党」、共産党共産主義者同盟、「インターナショナル」などであるべきなのか、という論争になる。そのいずれが正しいのか、というのは、難しい問題である。というのは、これは明確な経済科学のテーマというよりも、政治的、状況的、戦略・戦術的な問題だからだ。もし、我々がプルードンよりもマルクスエンゲルスが正しいと考えるとしても、2012年の現在、この日本で、「党」、共産党共産主義者同盟、「インターナショナル」とかがどういうものとしてあり得るのか(もし、あり得るとしたらの話だが)ということを省察せねばならないであろう。

経済的な問題を『資本論』で考えてみれば、そこで問題になるのは、その第三巻の、株式会社は資本制の消極的な揚棄であり、生産協同組合は積極的な揚棄である、というような言い方である。恐らくマルクスは最晩年に本当にそう考えたのだと思うが、プルードンとの対比で考えたほうがいいのは、プルードンが言っていたような「労働者合資会社」と「生産協同組合」とはどう違うのか、全く同一なのか、ということである。私からみれば、プルードンであれマルクスであれ超歴史的であったはずがないので、プルードンは19世紀フランス、マルクスは19世紀イギリスの社会的現実の範囲、その制約のなかで彼らなりのヴィジョン、「労働者合資会社」なり「生産協同組合」を考えたのではないか、ということになる。そしてさらに問題なのは、彼らが19世紀のヨーロッパで考えたものと、我々が21世紀の日本で直面することが同一かどうか、ということである。

19世紀末、20世紀、そして21世紀の現在に至るまで、協同組合主義の理論と実践は、マルクス主義と相対的に別箇にずっとあったし、それを検討してみるならば、とりあえず問題はこういうことであろう。我々にはいきなり貨幣そのものを廃棄することはできないので、問題になるのは、協同組合を作って労使対立、階級分裂などを解消、抑止してみるとしても、さしあたり分配を民主化するよう努力するくらいしかできない。通常、ごく普通の資本制企業、私企業では、平社員とかごく普通の労働者と管理職、幹部社員の間には大きな賃金格差があるし、社長などは非常に高額の報酬を受け取っているのが普通である。協同組合が経営を民主化する、労働者が参加するといっても、まずは、賃金格差をなくす、完全になくすことはすぐにはできなくても少なくともそれを縮小、緩和する、というところから始める以外にないのである。今固有名詞を忘却したのだが、スペインだかどこだかで、非常に有名な協同組合の実践があるが、そこでは、その協同組合のなかの賃金格差が6倍以内に抑えられているそうである。つまり、平社員と経営者の賃金・報酬も6倍以内ということだが、NAMで柄谷行人が主張していたのは、そういう格差はもっとあってもいいのではないか、ということである。経営の実際問題としてそうなのかどうかはちょっと分からないが、柄谷のような方向でずっと考えていけば、最終的に彼がいう「協同組合」とかいうものはほとんど資本制企業と全く同一になってしまうのではないか、と思う。

柄谷行人は1990年代に、世界資本主義の現実そのものがコミュニズムなのだ、という、非常に疑わしい主張を展開していたが、NAM以降の彼の言説にも同様の問題、即ち識別不可能性の問題が付き纏う。柄谷のいうように考えていけば、協同組合と株式会社がどこが決定的に違うのかまるで分からないのだ。実際、彼が中心になって立ち上げた批評空間社はただの株式会社であった。