"association", プルードンとマルクス

柄谷行人の『可能なるコミュニズム』、『トランスクリティーク』における類比、つまり、デカルト/ヒューム/カントを、「党」/アナーキズム/アソシエーショニズムに強引に結び付ける類比は余りにも乱暴で粗雑なのではないのか、と誰でも思うであろう。中央集権的な前衛「党」の支配と、デカルト主義におけるコギトの間に一体、どんな有意味な関係があるのか。20世紀終わり頃に、ソ連の危機・崩壊と共に活発になってきたアナーキズム、そしてその美的・思想的なありよう(例えば、リオタール)をいきなりヒュームに還元することもできない。そして、自らの立場はカントの批判哲学なのだ、とかいうのは、余りにも御都合主義であり過ぎるであろう。

だが、ここで考えてみたほうがいいのは、特に具体的な"association"についてのカントのヒューム批判と、プルードンの"associationisme"へのマルクスの批判を重ね合わせ、比較してみる可能性である。まず、前者からみれば、カントの批判は、ヒュームの"association"、観念連合が、ただ単に主観的だから、彼のいう「範疇」として因果性と捉え直すというものであった。先程のエントリーでも申し上げたように、そういうことをしても、本当にヒュームの懐疑を克服できるのかどうかは不明だが、とにかくカントはそう考えたのだということである。

プルードンマルクスという対立に移るならば、ここで問題になるのは、社会的、経済的な制度としての"association"、「労働者合資会社」とか「生産協同組合」などと把握される"association"と価値法則の関係である。プルードンの"association"がイギリス経験論におけるそれのように主観的で恣意的なのかどうかは分からないが、マルクスの『資本論』、及びそれに依拠した晩年の福本和夫、その弟子の石見尚の主張の問題性は、生産協同組合で資本制的な価値法則を廃棄できると考えたことである。少なくとも石見尚は『第三世代の協同組合』という著書でそういう考え方を披瀝しているが、それは、はっきりと申し上げて、何度読み返してもトンデモとしか思えないようなものである。石見は、古典的な物理学と現代物理学(相対性理論とか量子力学その他)の違いのようなものをいきなり「価値法則」の理解に強引に結び付け、生産のありようが協同組合的になれば、これまでの価値法則は廃棄される、と言い募っているのだ。だが、本当にそうなのかどうかは、私が見るところ、全く不明である。

別に石見尚の意見などどうでもいいことなのだが、我々がもう少し経験的、実際的に考えてみると、商品交換を規制する法則、価値法則、資本制的な経済を編成する規則、というものを考えてみれば、階級対立の存在が根本条件であろう。つまり、資本家と賃労働者がいるのだ、ということで、そこには剰余労働の搾取という問題系が必ず含まれるはずだ。そして、生産協同組合が資本制の積極的な揚棄だなどと『資本論』の第三巻で言われるのは、そこにおいて、そういう階級関係が解消されているからである。つまり、労働者自身が経営者になり、労働を指揮したり監督したりする労働に不当に高額な報酬が支払われるということもなく、そういう人々は実際に個別具体的に手を動かして働く労働者によってむしろ雇われている。そういうあり方になれば、そしてそれが社会において一般化するならば、確かに階級対立はなくなるか、緩和されるのだろうし、労働価値説が経済学説として妥当かどうかは分からないが、少なくとも当面の間は人間労働、具体的に人間が身体、手を動かす労働がなければ商品を生産することは不可能なのだとしても、そこに搾取が入り込む余地は消滅する、或いは少なくとも少なくなるはずである。

我々が"association"についてのプルードンのごく一般論としての物の見方を、マルクス的、或いはカント的に批判するというのならば、上述のような、生産現場の変革、そして、それを通じた階級対立の現実の解消、資本制的な価値法則の解消、或いは少なくとも問題化、というところ以外にはあり得ないのである。