大江健三郎『懐かしい年への手紙』メモ

「ギー兄さんよ、あなたは怒りを発した。それからは、挑発に倍して自分から攻撃的になって行った。──おまえたちは森の力にそって生きる恩寵を拒んだ以上、森の異教徒として、その力の脅威を惧れながら暮してゆくほかあるまい、とその場にいた誰もよくは理解できぬ、それだけにさらにオドロオドロしい、呪詛の言葉を発したのだ。ギー兄さんよ、それはあなたが手術直後に病院で話した、この世界の・またそれを超えた世界をとらえるためのあなたのモデル、テン窪の人造湖についての、愛のかたちとは逆のもの、つまり憎悪を語るメッセージだった! 現にそのような仕方でモデルが動き始める情景を、ギー兄さんは夢に見た。──真黒い水ともども、自分が鉄砲水になって突き出す。その黒ぐろとしてまっすぐな線が、つまり自分の生涯の実体でね、とギー兄さんは僕に話したのだった。世界じゅうのあらゆる人びとへの批評なんだよ。愛とはまさに逆の……」(『大江健三郎全小説9』新潮社、p.306)

吉本隆明江藤淳が対談して、この小説を貶し、ちょっとした性的描写以外に読むべきところはない、と評したが、これに限らず大江健三郎の沢山の小説には重要な主題が描かれている。とりあえずこの小説に即して重要な部分を幾つか指摘しておきたい。

(1)「ギー兄さん」はダンテ研究家だが、同期の女性大学院生連中から執拗に大学に復帰し海外留学を勧められても、それを拒否し、市井に、彼の地域に留まる。

(2)「ギー兄さん」の戦時中の透視術は全部出鱈目であったが、このテーマは大江健三郎において繰り返し出てくる。『燃え上がる緑の木』の新しい「ギー兄さん」、『宙返り』の教祖などは霊的な治療を行うが、その治癒効果は一時的な錯覚でしかなく、彼ら自身が死ぬと病人もやはり死んだ。

(3)「ギー兄さん」は政治的に急進的な人物ではないが、安保闘争のデモで右翼と乱闘になり、負傷した。大江健三郎自身を思わせる作家の語り手のことを心配してわざわざ東京のデモまで出てきたのだが、語り手の「僕」自身は不参加、不在であった。そこで「ギー兄さん」はデモ参加者の女性が右翼の暴漢に追い詰められているのを見るに見かねて、その暴漢と闘い、暴漢の眼を傘で負傷させてしまい、自らも殴打されて怪我を負う。

(4)「ギー兄さん」が安保闘争の後に彼自身の具体的な地域で構想し実行する「根拠地」は、何よりも地域密着型の経済的組織、経済的運動である。こういう主題も大江健三郎の小説には何度も出て来るし、『燃え上がる緑の木』の「教会」もそうである。

とりあえず私のメモは以上である。

補足すれば、ハイデガーは「森」、「田舎」、地方、地域に留まれ、といったそうだが、彼自身が森の思想家であったかどうかは疑わしい。他方、「ギー兄さん」が彼の地域に死ぬまで密着していたのは確かである。そして大江健三郎自身はどうなのかといえば、微妙であり、「四国の谷間の村」の自然が彼の文学の根拠だが、そうはいっても、東京大学に進学してフランス文学を学び、流行作家になって以来、そういうものからは切り離されてしまった。

「ギー兄さん、酷たらしい話だが、精神鑑定の強制執行の材料を集めようとして挑発する連中に、あなたはかつての根拠地運動への情熱を思い出したかのように、自分の側に加われ、と呼びかけたのだ。──Kちゃんも「隠遁者ギー」の詩で歌っているが、都市の汚染はこの田舎町にまで及んでいる。同時に森の復元力・恢復力・人間を恢復させる力が強まっているとすれば、われわれはまさにそのすぐ傍にいるのだ、とギー兄さんは言明した。森の力をよく感受し、都市から来る汚染された食物をとらず、人造湖の水によるアマゴと鱒の養殖で蛋白質を自給し、テン窪大檜の島に渡って冥想する。静かな愛の生活をおくる集団を作ろうではないか。自分はいま、その計画の根幹をなす人造湖を建設しているのだ。反対をやめて積極的に参加してくれれば、きみたちの疑心暗鬼はすぐにも解消しよう。」(p.305)

「ギー兄さん」について重要なのは、彼が資産もあれば人々から尊敬されてもいる有力者だということで、戦後日本には別に身分制度はないが、貴族のようなものである。彼は経済的にも社会的にも力がある人物なのである。そういう彼の構想と実践は具体的で現実的であり、古代のエンペドクレスのような思想家を想起させる。

ところが、「ギー兄さん」のエコロジカルな構想を地域住民は理解しない。彼の「哲学」の説教──それ自体が反対派によって悪意的に誘発されたものだ──を「精神に変調をきたしている証拠だ、みなで確認しておこう」という解釈、受け取り方しかしないのである。

そして反対派の嘲弄が、「ギー兄さん」の「愛」を「憎悪」に転化させる。「ギー兄さんよ、このように愛を語ったあなたを、凶々しい憎悪のモデルをふりかざす者へ急変させる、そのような挑発を、徳田医師が先頭に立って行なったというのだ。」それは、「瘴気」、「毒の力」、「臭いたてる黒い水」を「ギー兄さん」の人工肛門の袋から漏れる糞便の臭いと同一視しての残酷な嘲りである。そういうものに接して、「ギー兄さん」は、「愛」を「憎悪」に転化させ、「呪詛の言葉を発した」。反対派住民は、その言葉に恐怖して、「ギー兄さん」を殺害した。

「ギー兄さん」を右翼・保守派と呼ぶべきかどうか分からないが、そして日本以外の国や地域の歴史のことは知らないが、幕末から戦前・戦中・戦後に掛けて、「草莽」という表現が用いられてきたと思うが、地域に根ざして政治的な運動を志してきたが、その大多数が現実の社会、現実の歴史の展開の前に敗北し滅亡してきた、という近代の日本の歴史がある。幕末においては、それは尊皇攘夷運動としてあったが、その参加者の多くには、現在の幕府の政治は間違っているから、天皇ならば正しい政治を行なってくれるに違いない、という漠然とした期待感しかなかったはずである。ところが、幕府は倒れ明治天皇が即位したのだとしても、「攘夷」どころか屈辱的な条件で開国し、明治以降の日本は急激な近代化・欧米化・資本主義化に邁進した。私は読んでいないが、島崎藤村『夜明け前』にはそういう歴史の現実に堪えきれず発狂した愛国者が登場するそうで、日本以外のアジア諸国にはそういう「主体的な抵抗者」が多過ぎたからスムーズに近代化が進まなかった、というのが柄谷行人の意見である。私はそれは正しいと思う。

日本には「主体的な抵抗者」などいなかったから、明治維新のみならず1945年の敗戦においても、多くの人々は一夜にして戦後民主主義者、近代主義者に変貌したのである。戦後暫くの間の日本の文化をみると、そういう急変に違和を覚えた人々しか残っていないことが分かる。吉本隆明はいうまでもなく、戦後派文学も単純な明るい近代主義ではなく、例えば野間宏の『暗い絵』をそういうものとしては読めない。吉本と論争した花田清輝にしても、ルネッサンス、及びアヴァンギャルド芸術構想において単純な近代主義者ではなく、前近代的な要素を援用して近代を止揚しようという考え方であった。哲学においては、梅本克己の主体性論はともかく、梯明秀の物質哲学、最終的に人間の脳随に生命進化を含めあらゆる歴史が結晶するという「物質の現象学」はどこかグロテスクだが、「戦後思想」とはそういうものだったのであり、梯の哲学は後の黒田寛一に多大な影響を与える。

「ギー兄さん」に戻れば、『懐かしい年への手紙』の設定や描写から幾つかを読み取れる。まず、彼は単に自然や田舎が好きだっただけではないということで、「根拠地」にしても死の直前のエコロジー構想にしても、極めて経済的であり現実的である。大江健三郎自身の不安を反映しているのだろうが、「ギー兄さん」は、当時東西冷戦状況で「核時代」といわれていたような情勢における環境汚染を恐れている。だが、そのためにどうすればいいのかということについて、彼には具体的なプランがあったわけである。

私が思い起こすのは、「社稷」を唱えた権藤成卿橘孝三郎などの戦前の農本主義者である。尤も彼らの著作は現在入手困難だから、私も間接的に知っているだけである。農本主義者は超国家主義に加担したとか、5.15事件に参加したなどと批判されるが、当時の農村の悲惨な現実から出てきた思想と実践であったことは確かで、彼らもまたただ単に自然、田舎、農業、農民を愛していただけではなく、具体的に経済的にやっていこうとしていたのである。

「ギー兄さん」の「根拠地」運動は頓挫し、悲惨な事件が起きて、彼は投獄される。事件というのは、「根拠地」の劇団の女優と彼が恋愛関係、愛人関係にあったが、「根拠地」の運営を巡って揉め、車の中で争って、女優は不意に車から飛び出し、岩に頭を打ち付けて死亡する、というもので、それは事故であったが、「ギー兄さん」は、自分が彼女を強姦し、岩で殴打して殺害したかのように偽装する。その結果、彼は非常に長い間監獄に入らなければならなかった。

実は事故死であったものを殺人に偽装する、という設定、テーマは、『万延元年のフットボール』と全く同一であり、大江健三郎はそのことにこだわっていたと推測できる。『懐かしい年への手紙』の語り手である作家の「僕」の疑惑は、確かに「ギー兄さん」は殺人を実行はしなかったのだろうが、もし彼がすぐに救急車を呼び救命活動を行っていたならば、その女優は助かったのかもしれない、ということである。

「ギー兄さんよ、僕はこのシーンにかさねて、その朝のテン窪大檜の島の眺めを思うのだ。ギー兄さんは草原に横たわっている。いくらか離れて、オセッチャンと妹は草を採んでいる。そしていつのまにか僕もまた、ギー兄さんの脇に寝そべっているし、ヒカリとオユーサンも草採みに加わった様子だ。陽はうららかに上げ楊の新芽の淡い緑を輝やかせ、大檜の濃い緑も夜来の雨に新しく洗われて、対岸の山桜の白い花房が揺れている。時はゆっくりとたつ。威厳ある老人があらわれて、何ぞかくとどまるや、走りて山にゆきて穢を去れ、さらずば神汝等にあらはれたまはじ、とわれわれを叱りつけるので、とるものもとりあえず、急いで大檜の根方に向けて走り登るのだが…… 時は循環するようにたち、あらためて、ギー兄さんと僕とは草原に横たわって、オセッチャンと妹は青草を採んでおり、娘のようなオユーサンと、幼く無垢そのもので、障害がかえって素直な愛らしさを強めるほどだったヒカリが、青草を採む輪に加わる。陽はうららかに楊の新芽の淡い緑を輝やかせ、大檜の濃い緑はさらに色濃く、対岸の山桜の白い花房はたえまなく揺れている。威厳ある老人は、再びあらわれて声を発するはずだが、すべては循環する時のなかの、穏やかで真面目なゲームのようで、急ぎ駈け登ったわれわれは、あらためて大檜の青草の上に遊んでいよう……

ギー兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に生きるわれわれへ向けて、僕は幾通も幾通も、手紙を書く。この手紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終りまで書きつづけてゆくはずの、これからの仕事となろう。」(p.307-308)

この結びの文章はよく議論されるが、ヘーゲルニーチェなどの先入観を抜きにして素直に読んで分かるのは、このような「和解」といっていいような幸福な瞬間、但し夢想の瞬間が訪れるのは、「ギー兄さん」が悲惨に殺された後のことでしかない、ということであり、語り手の「僕」が書くという幾通もの手紙は返事を書いてくることが絶対にない死者に宛てられたもので、「僕」が展開する対話は全て自己内対話である。「ギー兄さん」は作家である「僕」の都合がいいように幾らでもイメージを修正・偽造されてしまうし、そうされたとしても、既に死んでいる彼にはどうすることもできない。

それから、ここにおける時間性が「循環」、「循環する時」、「その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時」であるということもポイントで、そこに、この小説がヘーゲル的な循環とかニーチェ永遠回帰に引きつけられて解釈される理由がある。だが、そういう時間性が立ち現れるのが、物語の中心人物である「ギー兄さん」の変死の後であるということが重要である。

以上は「死」を重視する私の勝手な読み方で、大江健三郎自身は生命主義的である。しかしながら、彼の作品世界に生命的な自然やエコロジー思想のようなものが描かれるようになっていった経緯を吟味すべきである。

『死者の奢り』で東大在学中にデビューした彼の原点はサルトル実存主義であり、『存在と無』の哲学・思想であるとともに『水いらず』、『嘔吐』などの文学でもあった。サルトルの発想を整理すると、主要な特徴は、即自と対自、我々が熟知している言葉でいえば物質と意識の鋭い対立であり、彼にとって物質とは死んで不活性なモノ、デカルト的なただの延長(拡がり)である。

そこには生命的な自然などが介在する余地はないが、そういうものが後年クローズアップされる萌芽を既に『芽むしり仔撃ち』にみることもできるのかもしれない。だが、大江健三郎において生命や自然などの主題が前景化してきたのは1960年代後半のことであり、具体的には『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』などからである。

政治的・歴史的要因を指摘すれば、まず、東西冷戦、「核時代」へのほとんど本能的な恐怖であり、安保闘争など1960年代の民衆運動に触発されたものだと思うが、前近代、江戸時代の一揆などの民衆の闘争・叛乱の歴史への注目である。

ただ、そうして登場してきた生命主義的な自然観と死のリアリティは裏腹なものだ、というのが私の考え方で、『取り替え子』を思い起こしてもいいが、そこで描かれるのは伊丹十三を思わせる自殺した義兄が遺した膨大な録音テープの聴取、及び過去の回想である。生命と死の不即不離の微妙な関係性は、戦後民主主義的で進歩主義的な彼の政治思想と、右翼的な情念と行動に密かに惹かれる心情の分裂として表現されてもいる。