sur l'association

これから図書館でポール・ヴィリリオの『民衆防衛とエコロジー闘争』と島田雅彦の『英雄はそこにいる』を借りてくるが、その前にここ数日気になっていることをメモしておく。

それはプルードンの"association"(連合、アソシアシオン、アソシエーション)概念についてである。10年以上前にプルードンについて調べたときのことだが、"association"とは具体的には「労働者合資会社」のことだと指摘している研究書があった。それはそれでいいのだが、19世紀ヨーロッパ(フランス、イギリス)の経済状態や会社制度、それと現代日本との相違などを考えてみた。

私の認識が正しければ、暫く前の会社法改正で、日本においては、合資会社、合名会社、有限会社などはなくなり、株式会社に一本化されたはずである。それまでも事実上、株式会社が多かったが、株式会社を設立するには1000万円以上の資本金が必要であった。会社法改正でそこが変わり、故に、合資会社、合名会社、有限会社は消滅したのである。

合資会社、合名会社、有限会社、株式会社、民法上の組合の違いは、経営的な責任、経済上の責任であり、無限責任有限責任か、という違いである。もしその事業体が行き詰まり倒産、破産した場合、出資した金額だけ負担すればいいのか、全財産をもって償わなければならないのか、ということで、ここが「無限責任」ということだと、おいそれとは出資できないということになる。

近代的な株式会社制度は、個々人、個々の市民が、リスクをそれほど気にせず出資できるという意味で優れているが、奥村宏の一連の著作の主題がそうであるように、無責任である、誰も責任を取らない、という問題がある。それは株式会社制度だけではなく、経済社会総体の問題で、これだけの大事故を起こした東京電力も、東京電力に多額の融資をしていた銀行も、国民の税金で救済されてしまうし、それはおかしいのだが、その現実を批判し変更するには、社会そのもの、権力の複合的なありようそのものを変えなければならない。

そしてそういう株式会社制度を大いに栄えさせてきた経済的現実とは、資本と経営の分離である。即ち、会社に出資する資本家、出資者、投資家連中と、実際に会社を経営し事業を運営する企業家、経営者の役割分担であり、そういう現実的な変化があったからこそ『資本論』第三巻でマルクスは株式会社を資本制経済の「消極的な揚棄」と看做したし、『一般理論』のケインズは当時のイギリスの金利生活者階級を問題にして「安楽死」させようとしたし、シュンペーターにとってはイノヴェーション(技術革新)を実行する企業家階級がテーマであった。

プルードンに戻ると、彼の時代のフランスの会社制度がどうだったのか、株式会社制度はどの程度発達していたのか、ということで、もし株式会社制度がきちんと確立されていなかったのだとしたら、彼のいうアソシアシオン=「労働者合資会社」は無限責任というようなハイリスクなものであった可能性が高い。