暴力と法

最初に一言で原則を申し上げれば、法についても(暴)力についても、自然的なものと人為的なものを区別しなければならない。そして、区別できないという場合もあるし、難しい論点もある。が、それは後述する。

ともあれ、よくそう考えるように、法においてこそ国家の最高の権力、または暴力、要するに国家が個々人、市民、国民、人民に振るうことができる直接的で端的な力が明確な言葉で表現されている、ということができるが、それは特に刑法や民法においてであり、特に刑法である。ここでは、国家が犯罪人を処罰できるということ、特に死刑に処することができる(死刑が廃止されたり、実質的に停止された国々を除いては)ということが重要である。そして、そもそも犯罪とそうではないもの、犯罪者とそうではない人々の区別や特定自体が恣意的である場合も多い。デモの参加者が「威力業務妨害」で逮捕されるという場合はどうだろうか。デモならデモは、「非暴力」であるといわれる。だが、それがもし効果を持つならば、一定の力、実力は伴っているわけである。デモが純粋に意思なり意志の「表現」である場合と、具体的な脅威になる場合があり、最終的に暴動や内戦に発展する場合さえもある。

それはそうと、刑法という意味での法は、特に近代国家には必要不可欠なものであり、明治日本もプロイセンなどの法体系を学んで摂取したのであった。確か、プロイセンやフランスの法律を参考にして刑法、民法などを整備したはずだが、古代以来、例えば聖徳太子の十七条の憲法などがあったのだとしても、聖徳太子による「憲法」などは近代以降我々が考えるものとは違っている。その後日本は、当時の中国の帝国から、仏教などとともに法律(律令)や官僚制度も輸入した(宦官制度だけは輸入しなかった)。

法、法的なものと国家、国家権力、権力などは本質的に関わりがあるが、前者から後者を導き出したり、後者によって前者の発生を全部説明したりすることは困難であると私には思われる。ともあれ、我々が知る限りの究極的な合法的な暴力の行使とは死刑宣告、死刑執行である。古代世界、中世、近世、近代などそれぞれの相においてみるべきだが、現代においては、司法手続き、例えば裁判も、判決(判断)も、執行そのものさえも、理性的、合理的に為されるが、理性的だから暴力性が減じたというわけではない。国家が個々人に死を命じ強制することができるのは、死刑においてと、戦争においてである。

法及びそれに関連したもろもろのシステムにおいて、国家が合法的に、そして理性的に(或いは理性そのものとして)暴力を独占している、ということをいうことができるが、但し、このことについて少し慎重に考えなければならない。

例えば、憲法も法律であり、国法である。抽象的な法とか、考えられただけの法とか、ただの理想、想像、願望ではなく、はっきりと言葉で書かれ、議会によって承認し公布されたものである。ところが、近代世界においては、憲法とはむしろ国家への命令であり(命令するのは、主権者としての国民──そもそも「国民」という言葉や表現そのものを嫌悪する左翼が非常に多いが、それはともかくとして──であろう)、国家権力を縛り制約するものである。

漠然と憲法といっても色々とあり、例えば、ワイマール共和国に存在したワイマール憲法がある。また、アメリカにはアメリカの憲法があり、アメリカ合衆国憲法が制定されるときには、当時、国内で激しい論争があった。アメリ憲法制定が中央集権的であり、地方の自由や自立性、独立性を奪うものだ、と感じた人々が多かったからである。だが、最終的に憲法は制定された。

日本国憲法の場合は少し事情が違い、敗戦後の全く無力な状況において、一部の理想主義的なアメリカ人連中が、自国の憲法にも記入できなかったような理念を日本の憲法に盛り込んだのであり、そのひとつが憲法9条の交戦権の否定、戦力不保持などである。前も書いたが、国家を擬制的な人、人格と想定すると、その国家に交戦権がないというのはおかしい。それは、自然権を奪われた個人のようなものである。だが、「国家の人権」ともいうべき交戦権を剥奪され禁止された現在の日本は、それはそれとして世界史的な理念の実験場となっているのであり、私は現状を継続すべきだと思っている。

さらに考察を進めなければならないが、かつての古典的な考え方は、「自然法」を想定したが、その自然法は言葉ないし文章で表現されたものではなく、超越的な存在だと考えられていた。そして、そういうものが本当に「ある」のかどうかは非常に疑わしい。実定法が全く何もないところで、或る行為、暴力の発現を罪あるものとすることなどできるのだろうか。

ここで指摘しておくべきは、自然のなかには善悪の区別などなく、それを持ち込むのは人間だということである。事実としてある自然のうちでは、もろもろの個体やその集団が、その力を展開するだけである。可能性を実現、現実化し、潜在性、潜勢態を現実化、現勢化するという運動があるだけなのである。そこには善も悪もなく、法律がなければ裁かれる罪もまたない。

そしてそれは社会とか国家が成立し、人々が法の制約のもとに暮らし始めるようになって以降さえもそうである。現在においても、私が手を伸ばして、近くにあるお茶のペットボトルを取り、中の飲み物を飲む、というような一連の動作は、全く罪あるものではない。それは当たり前だと思われるだろうが、そのことすらも、私の身体、肉体の力、潜在的な可能性の展開であり現実化であるということには変わりがない。ところが、或る一定の行為の一群は、犯罪として咎められ、場合によっては処罰されるわけである。例えば、私がそばにいる人や偶然遭遇した人をいきなり殴りつけるとしたら、それは、どんな文明社会においても問題視されてしまうであろう。

善悪というものは、法以前に倫理・道徳のうちにあり、そして倫理・道徳というものは、はっきりとした言葉、論理で表明される以前に、感情とか衝動などのレヴェルである場合が多い。ルソーは「憐れみの情」を重視したが、一般に、他者に感情移入し共感、同情する能力から、自分がされたくないことは他人にもしてはならない、という『新約聖書』など古代の古典に由来する「黄金律」が導かれる。例えば、私はいきなり意味もなく他人、隣人から暴力を振るわれたり殺害されたくない。だとすれば、私のほうも隣人に理由もなく暴力を振るうべきではないであろう。

そういう一定の禁止や制約は、漠然とした感情や衝動のレヴェルにおいてあり、後に明確な言葉に齎され、最終的に法的な言語に表現されるようになるが、そもそも生存、自己保存という観点から考えられるべきものであったことは明らかである。ホッブズのいうような意味での自然状態、戦争状態、「万人の万人に対する闘争」、容赦ない争い、闘争、攻撃性という状態は、通則ではなく例外であったと思われるが、確かにそういう状態(時に内戦時など秩序が崩壊した場合に現出する)は個々人にとって生存しやすい状況ではなく、むしろ逆で、最高度の危険に晒された状況だから、そういうものを避けるために法によって秩序を保障したいと思うのは人情である。

さらに考察を進めれば、「自然法」ではなく「自然法則」を想定すれば、それは最早人間が創造したり発明するものではない。マルクスもいうように、観念的に「重力の法則」を廃棄したり無化することなど誰にもできないのである。私が高いところから飛び降りたり、川に飛び込めば、死ぬであろうことは明白であり、必然である。そこにはいかなる理屈も関係がないのである。

長くなり、パソコンがフリーズしまくるので、ここで一旦送信する。