(社会)科学方法論 6

マルクス主義歴史観の問題は、そこにおいて歴史、世界史に目的論が持ち込まれることである。マルクス没後もそうであり、レーニンが『帝国主義論』を著したとき、彼にとって帝国主義とは、資本主義の最高の段階であるとともに最後の段階、最終段階であった。つまり、最早純粋な自由主義的資本主義ではなく、国家がどんどん関与、干渉してきているような資本主義=帝国主義だから、国家権力を奪取して経済を国有化しさえすれば社会主義が実現できる、と看做すようになったのである。それだけではなく、レーニンとは考え方が全く異なり、むしろ議会を通じて権力を獲得すればいいと判断していた晩年のエンゲルス、老エンゲルスもまた、大工業の発展・発達が将来コミュニズムを齎すだろうと楽観していたのである。

だがしかし、その後の歴史の展開は、エンゲルスの予想もレーニンの予想も大きく超えるものであり、それを覆すものであった。資本主義の生命力や適応能力は、彼らが考えたよりも遥かに高かったということで、レーニンが創設したソ連が滅びてもなお、資本主義は元気に生き続けている。帝国主義は資本主義の最後の発達段階などではなく、姿やありようをどんどん変貌させ続けながら生き続け、成長し続け、ほとんど怪物のように(こういう比喩は好まないが)世界中に拡大し続けている。余りにも巨額な資金の流れが地球を猛スピードで駆け巡り、個々の具体的な人間の存在、生命・生活、意志・欲望などは全部偶然的なものとして無化され消去されてしまうかの如くである。そしてそういう恐ろしい社会的現実、現実の世界史的事態の進行に際して、我々一般市民の側はといえば、金融取引税を創設しその課税を強化してみてはどうか、と政府に提案したり訴えることくらいしかできないという残念な現状である。勿論、そういう税金をちょっと導入したからといって、多国籍企業、グローバル資本に有効に対抗できるはずがないが、全く何もせず手を拱いているよりはましだろう、というくらいである。

話を戻せば、私がいいたいのは、マルクス没後のマルクス主義者、例えばエンゲルスレーニンのように歴史、世界史に目的論を持ち込むべきではなく、状況なり情勢、力関係などをシビア且つリアルに分析すべきだ、ということである。