(社会)科学方法論 5

資本論』かどこかでマルクスは「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」といっているそうだが、これは、ダーウィニズムなどの生物学的な考え方と微妙だが決定的に異なっている。どこが違っているのかというと、思い出していただきたいが、生物進化の学説において、個体の変異、遺伝子レヴェルでの微細な変異は、完全に偶然的でランダムであった。そして、当該の生物が生きる自然環境との関係性、淘汰、選択(選別)などと表現される関係性を通じて、特定の個体群が生き残り、繁殖してきた。進化とは、ただ単に、そういう偶然的で事実的な過程の結果であるに過ぎない。

進化の果てに猿から人間が生じてきたのだとしても、その「人間」を究極目的と看做したり、「人間」から振り返って生物進化の歴史、生命の歴史を全部再編することはできないのである。生物学には、人間中心主義が介在する余地はない。もし適応的でなければ、その人間すらも滅亡して、他の生物種に地球を譲るべきだし必ずそうなるのだ、というのが、自然科学的な物の見方である。

ところが、マルクスの場合は、「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」。この言葉の意味は、現段階の資本制の内在的なロジックを精密に分析することが、歴史のそれ以前の段階の理解、概念的な把握を可能にするのだ、ということである。ここに「唯物史観」とは別箇の、マルクス自身の徹底的で「構成的」な歴史観がある。つまりそこでは、ただ単なる事実問題とか、実証的な歴史とかはそれほど問題にならないのである。そういう歴史観、歴史把握だけで本当にいいのかどうかは、また別問題である。