(社会)科学方法論 3

マルクスに戻る前にフロイトの隘路について触れたいが、まずいえるのは、後にラカンは「数学素(マテーム)」によって精神分析学を根拠づけようとしたのだとしても、フロイト自身にはそのような数学化の志向はないということである。彼自身は、生理学、生物学に大きなシンパシーを覚えており、将来生理学が発達して脳が解明されれば自分の学説が実証されると信じていたのだが、現実の科学史の展開は真逆であり、脳科学者はフロイトを否認している。

どうしてそうなるのかといえば、フロイトの立ち位置が非常に微妙だからである。彼自身は自分は経験科学者だと思っており、生理学的な立場に近かったが、生理学などの自然科学から『夢判断』が出てくることはないのである。フロイト精神分析学は「意味」のレヴェルに定位しているということだが、ややこしいのは、そういうフロイト主義、精神分析学は現象学的な方法、現存在分析とも全く違っているということである。

自然科学のみならずフッサール現象学、さらにウィリアム・ジェイムズの心理学や「純粋経験論」、ベルクソンサルトルなどとフロイトが決して一致できないのは、「無意識」の想定である。柄谷行人などの現代思想フロイトのいう「無意識」はユング派などのロマン派・ロマン主義的な「無意識」とは異なり、非常に言語的で形式的なものなのだと指摘するが、その意見の妥当性はともかく、「無意識」が検証も反証もできない奇妙な「科学的対象」であるという意味で、「問題提起的=問題構制的」であることは確かである。

フロイトが「無意識」の大陸を発見したように、マルクスは「歴史」の大陸を発見したのだ、と『『資本論』を読む』のアルチュセールはいっているが、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』、『フランスの内乱』、『共産党宣言』、『経済学批判要綱』ではなく『資本論』にどういう歴史を見出せるのであろうか。少なくともそれが、古代以来あるような経験的事実をただ単に積み重ねただけの歴史ではなく、論理的な歴史、概念的に理解され把握される限りでの歴史であり、資本制、高度に発達した産業資本主義に到達した現時点(マルクスが書いていたのは19世紀である)から回顧的に振り返って捉えられた歴史、世界史の総体であるはずである。そこにおける歴史は、論理的であるだけではなく、事後的に構成されたものである。

マルクスが「発見」した何かがそういうものだと看做されるから、フロイトの「無意識」と並べられ比べられるのである。この際、ポパーなどがいうような、そして実証的な科学者の大多数がいうような、マルクスフロイト共産主義精神分析学は科学ではない、というような異論は無視することにしたい。確かにそれらは自然科学の科学性の規範に照らせば大きな問題があるが、それでも「問題提起的」であり「問題構制的」なものとしてある。

これは『資本論』に限らないマルクス主義の基本的な発想だが、社会は歴史の進行につれてブルジョアジープロレタリアートの二大階級に分裂していき、それらの階級が闘争し合い、弁証法的な過程の結果、ブルジョアジーは没落しプロレタリアートが世界史の主人公になる、というような筋書きの物語は、神話であり虚構である。マルクス没後の歴史を調べるならば、プロレタリアート、工場労働者が歴史に登場してきた最後の人物形象などではなく、社会の構成は公式的なマルクス主義者が単純に考えるような明快なものではない。しかしながらそうなのだとしても、とりあえずマルクス主義的な枠組みから出発することは必要であると私は思う。なぜならば、単に事情が多様だというだけでは、全く何も認識できないからである。

フロイトに戻ると、どうして彼の夢理論を、脳科学者や生理学者だけではなく現象学者、現存在分析なども拒否したのだろうか。その理由は、顕在夢(顕在内容)と潜在夢(潜在内容)というフロイトの解読方法にある。彼は夢のテキストをそのまま文字通りに読むことをしないのである。夢、眠りから目醒めた人々が語る夢の物語やイメージ、夢の顕在的な内容は、何か別のもの、抑圧された無意識の欲望、願望、衝動の表現なのだと看做され、そういう視点から解読され翻訳される。自然科学者だけではなく、ジェイムズ、フッサールハイデガーサルトルなどがどうしても認めることができないのは、そういう翻訳や解読である。実際、フロイトフロイト派の精神分析家による夢、言い間違い(失錯行為)、神経症の症状・病態の意味の解読が妥当である根拠など客観的には全く何一つないのである。

フロイトの考え方は、主観的でも客観的でもなく、相互主観的・共同主観的・間主観的でもなく、生理学に還元できるという意味での科学主義、「科学的心理学」でもなければ、現象学(現存在分析)でもなく、フロイト以前に存在していた精神医学・精神病理学でもない。それどころかラカン以降、精神分析学の言説は、全く位置付けることができないものである。精神分析家の意見は、精神分析は哲学でも科学でも宗教でもなく、さらにただのサイコセラピーでもないそうだが、ということは、わけがわからないということだし、「精神分析の語らい」に耳を傾ける物好きが集まった「精神分析の共同体」を形成するだけであり、はっきりいえば茶道などと同じだということである。