(社会)認識の方法

昨晩書いた考察の続きを少し展開してみたいが、マルクスの『資本論』の議論は幾つかの方法で編成されていると思うが、彼が序文で明確に述べているのは、「抽象力」というものである。生物学者が顕微鏡で細胞を研究するように、自分は「抽象力」で商品、価値形態を分析するのだ、というものである。『資本論』そのものは別にそういう「抽象力」だけで貫かれているものではないが、「商品」の分析、価値の考察、価値形態、人間労働などなどで始まるということだけは確かである。

そういう出発点について、幾つか指摘をすることができるが、まず、マルクスの科学性の規範が物理学ではなく生物学であったということである。それは、『資本論』序文がいうような顕微鏡で細胞を観察する生物学者であり、さらには、生物進化を実証するダーウィンであった。物理学、特にニュートン物理学ではなく、同時代の生物学の知を規範にしたということは重要である。

微小な単位に注目する生物学の知ということでいえば、マルクス没後、20世紀においては、生物学は遺伝子、DNAの解析に向かったわけである。「分子生物学」の成立である。そして、そういう非常にミクロな知の成立とダーウィニズム、進化論(生物進化説)も関わっている。即ち、生物の変異は非常に微小なレヴェルで、DNAのほんの僅かな違いとして表現される。その変異は純粋に偶然的であり、無方向である。微妙に変異したもろもろの個体が、自然環境のなかで自然選択(淘汰)に晒され、或るものは生き残り、子孫を繁殖する。別のものは滅びてしまう。そういうことを非常に長期間継続すると、或る方向の変異が伸びていき、最終的に生物において非常に大きな違いが実現される。大まかにいえば、これが分子生物学の知と進化論を結び付ける現代的なヴィジョンである。

資本論』に戻ると、生物学の知を規範とするマルクスの経済学、或いは経済学批判という社会思想はどうなのかというと、細胞とかDNAの解析に相当するものが、商品そのものの謎の解析であり、ダーウィニズム、生物進化に相当するのが「階級闘争」及びその結果としての政治革命である。マルクスの場合、『資本論』の論述から直接は革命の必然性は出てこないということが、宇野弘蔵の指摘以来よく知られており、それはその通りだが、例えば、その体系が近代経済学新古典派)の一般均衡体系と等しいことが証明できる、というような経済学者の考察を私は重要だとは思わない。抽象化し形式化すれば、マルクス経済学と近代経済学がほぼ同じことをいっていると分かるのだとしても、そもそも近代経済学が科学として妥当である保証が何もないのである。

それはそうと、私がいいたいのは、単純商品の分析、価値なるものの成り立ちについての人間労働にまで遡っての叙述というような『資本論』から直ちに革命の必然性は出て来ず、出て来るのは「恐慌の必然性」だけなのだとしても、それでも、生物学そのものと同じように、ミクロなレヴェルとマクロなレヴェルの相関があるはずだ、ということである。だから、価値形態論だけに注目する読み方は間違いだが、そうはいっても、第二巻、第三巻まで考慮するならば、『資本論』の体系はごく一般的な経済学的な知の展開である、という可能性が十二分にある。そして、それはそれでもいいのだが、それでいいのだろうか、ということにもなる。

資本論』における「論理」と「歴史」がマルクス経済学者によって論じられてきた経緯について言及したことがあるが、もしそれを論理主義と歴史主義というような哲学的立場の相違とか争いと解釈するならば、それは調停不可能である。ただの論理とか概念から、具体的な歴史、実際の世界史が出てくるはずがないからである。産業資本主義、全面化した商品化、労働力商品化などは歴史において特定的であり、或る具体的な歴史の時点から生じたのだというべきだろうが、それでも『資本論』第一巻の叙述が奇妙に「論理的」であり、そこから宇野弘蔵などが「純粋資本主義」、資本主義の純粋な理論モデル化を導き出したということは事実である。「純粋資本主義」が具体的には19世紀イギリスの社会的現実のことだったとしても、論理は論理として自立し、体系はそれ自体として成り立っている。だが、現実の歴史、現実の社会は、経済が経済としてだけ自足していたのではなく、後に、帝国主義というかたちで国家権力や政治などと複雑に関わるようになっていった。経済が経済そのものとしてあるわけではなく、政治など経済以外の要素とややこしく絡まり合って成立している、というのは、新自由主義と一般に呼ばれる現在の状況においても全く同一だし、ネグリ=ハートのいう「帝国」をとりあえず認めて想定するとしても、そこでも事態は同じである。

私がいいたかったのは、「論理」と「歴史」というかたちで対立構造を解釈するのではなく、同じ生物学的な知のミクロなレヴェル、即ち細胞の観察(20世紀以降においてはDNAの解析)とマクロなレヴェル、生物進化説・進化論の相互補完的な関係と同じものとして『資本論』の商品の分析、価値形態論とその後に続く叙述の関係を整理してみてはどうだろうか、そうすれば無用で解消不可能な矛盾に悩む必要がなくなる、というようなことである。素人の物の見方だから、妥当ではないかもしれないが。とりあえずここで一旦、送信する。