計算可能性

今日の放送で述べた考え方を一言で要約すれば、「個人についても社会についても、快楽と苦痛を完全に合理的に計算し予期することはできない、そこには限界がある」ということで、当たり前だと思われるかもしれないが、昔も今もそう思う人々が非常に多いのである。人間の自由意志を否定する現代の脳科学者は、知らず知らずに、ジョン・ロック『人間知性論』初版の快楽主義的で決定論的な倫理思想をほとんどそのまま繰り返している。人間を完璧に合理的な存在として捉える新古典派経済学は、人間の快楽と苦痛を全部計算できると看做す単純さにおいて、「最大多数の最大幸福」を社会政策的に簡単に実現できるというベンサム功利主義と同一である。しかしながら、勿論、現実はそうではない。

ロック自身も『人間知性論』が版を重ねると、人間は「将来の善」を慮ることができるのではないか、と判断を修正したが、それは決定論的な要素が全部ではなく、不確定性があるということである。功利主義にしても師ベンサムを批判するミルの立場は違うし、社会を一枚岩ではなく、和解させることができない対立した複数の階級の利害の相違の相において捉えるマルクス主義の伝統はイギリスの社会思想とは全く別である。そうすると、2012年の現在においては、社会を思考する社会思想があり得るとしたらどういうものなのか、ということを、市野川容孝『社会』などとともに考えることができる。

すぐに分かるのは、オーギュスト・コント、デュルケム、タルドなどの「社会学」の流れと、アダム・スミスマルクスなどの「社会科学」の流れがあり、社会観がかなり違うということである。そして現在存在している社会についての物の見方はそれだけではないだろうし、社会の考察や分析がどこまで客観的で正確なものになることができるのか、どこから先はもう合理的に予測・予想したり解析できないから、「政治」の領域なのか、といったことを、きちんと劃定しなければならないが、そういうことがどこまで可能なのだろうか。