山中貞雄『人情紙風船』

首相官邸前に行こうかとちょっと誘惑に駆られたが、体力も金銭もないという残念な現実である。生徒が月謝を払うのは日曜日だし、株式を売却してもお金が入るのは4日後である。

ふと山中貞雄『人情紙風船』という戦前の優れた映画を思い出したが、貧困を描いたものしては小津安二郎の『大学は出たけれど』と並んで良かったと思う。

『人情紙風船』は、確か、江戸時代の貧しい武士、侍の話である。彼には仕官先がなく、貧乏している。ありとあらゆる就職活動をするが、どうしてもうまくいかない。

一番印象的な場面は、主人公の侍が就職を断られ、路上に倒れ込んだまま放置される場面である。静寂な時間が過ぎ、通り過ぎる誰も彼を助けようとはしない。

最終的に、余りにも情けない状況に堪えられなくなった彼の妻が、寝入っているところを短刀で襲って殺害し、自害して、無理心中する、という結末である。

そういえば昨日ジョン・ロックの『統治論』を読んだが、私有財産、私的所有、所有権を正当化したというのが、田中正治さんによるジョン・ロックへの批判、近世・近代への批判であった。田中さんの考え方を念頭に置いてロックを読んだが、感想は、所有権の根拠づけはロックに限らず当時の共通の関心事であり、所有の起源や根拠を「労働」に求めるのもありふれている。ルソーの『人間不平等起原論』もそうである。ただ、ルソーの場合は、社会状態において人間の不平等や隷属が生じてきたということへの批判的な眼差しも含まれている。

所有を正当化したからという理由でジョン・ロックを否定することはできないのではないか、ということである。所有とか「持つ」ことという範疇を廃棄するのは難しい。資本主義を支持するとか、社会主義を否定するとかいうことではないが、存在するとは所有することである、と看做す思想家も19世紀のガブリエル・タルドなど無数にいるし、例えば「習慣」を意味する"habitude"も持ち分、持ち前などと関係があるはずである。事実上、人間は、彼が「持っている」ものを全部奪われたり否定されたりしたら、まともに生き続けることはできないのである。そうではない人間、全てを徹底的に剥奪された人間の生は、例えば、強制収容所のなかなどにおいてしか見ることはできない。

別にジョン・ロックが資本制を発明したとか肯定したわけではなく、彼は自由主義の伝統のなかにいるというだけである。資本制経済は誰か特定の思想家、政治家、経済人が発明したものではなく、世界史の流れのなかで非常に長い時間を掛けて、そして多数の偶然が重なることによって漸く成立してきたものである。マルクス主義者は資本主義=自由主義と看做す。正確にいえば、自由主義は資本主義の政治的な表現であり、資本主義を肯定、弁護、正当化するイデオロギーだと看做すわけだが、そういう単純な話ではない。

そういうところから、新自由主義への評価も難しくなる。そもそも自由主義そのものの本質が新自由主義的、ネオリベだったのだというのがすが秀実の意見だが、すがの論点は自由主義の否定であり、極めて古典的で典型的な左翼、マルクス主義者の主張である。すがのように考えてもいいが、経済的自由だけではなく政治的な自由も軽視する彼の物の見方からは、一体いかなる実践的帰結が出てくるであろうか。

私自身は新自由主義は「新保守主義ネオコン)」でもあり、体制や権力を批判する勢力には少しも自由など認めず、警察や機動隊、軍隊などの暴力装置を使って徹底的に弾圧してくるという側面を重視したほうがいいと思う。

ソ連以降のマルクスレーニン主義者、特にスターリン本人やスターリン主義者には倫理や道徳がなかったから、権力主義的な弾圧や強制収容所になったのではないか、というのが柄谷行人の意見であり、『倫理21』を書いた彼がNAMを立ち上げた動機でもある。しかしながら、政治権力を掌握した左翼に欠けていたのは倫理とか道徳というよりも、政治的な自由を尊重する考え方とか、政治的、宗教的な寛容だったのではないか、とみるほうが妥当ではないだろうか。そうなってしまったのは、ソ連や中国の後進性にも原因がある。所謂「西欧マルクス主義」はまた別だからである。

揚棄する」という意味のドイツ語の単語には、「廃棄する」という意味と「保存する」という意味の両方があるが、近代社会が実現した政治的自由や人権などは何としても「保存」すべきものだったが、現実の歴史の歩みはそうはならなかった、ということである。経済的な意味での自由すら、完全に廃棄してしまっていいものではなく、もしそうするならば、最早イノヴェーション(技術革新)の動機がなくなってしまう。だから、「自由」をめぐる問題系は、一筋縄ではいかないのである。