倫理・道徳ではない平和主義

私の考えでは、ソヴィエト連邦、革命ロシアが理想主義的な社会実験であったというだけではなく、戦後の日本、9条を含む日本国憲法を持つ「日本国」もそうである。というのは、日本を占領したアメリカ人のごく一部の理想主義者達が、自国の憲法にすら書き込めなかった理想主義的な条文を戦争に完膚なきまでに敗北し打ちのめされていた日本の憲法に書き込んだからである。憲法アメリカから日本の押し付けである、対米従属を強いられている、と右翼や保守派などは不満である。彼らは改憲して堂々と軍隊を持ち、「自立」して「一人前の主権国家」になりたいのである。

だが、そのとき、押し付けとか従属、一人前の主権国家などという意味を吟味したほうがいい。自然人、つまり個々の具体的な人間に自然権があるとすれば、国家という擬制的な人間にもそれがなければおかしい。そういう理由で、交戦権を否認「しない」ほうが近代国家の在り方として普通だし、実際、コスタリカなどを除き日本以外の大多数の国々でそうなのである。ただ漠然と平和を志向する、戦争は悲惨だから避ける、協調路線、まずは話し合いを、ということなら、余程戦争が大好きな一部の人々を除いて誰でもそう考えているだろうが、実際に憲法のレヴェルで交戦権を否認し、戦力の不保持を定めている国家などほとんどないのである。

それが現代日本ソ連同様の世界史における社会実験であるという理由である。なぜならば、アメリカ先住民、イリノイ族その他がどうだったのかは分からないが、歴史上、戦争を否定して成り立ち存続可能だった国家共同体はなかったからである。そういう意味で、平和主義は倫理・道徳の問題ではなく力の問題であり、国家の交戦権を否認して本当に歴史において、国際関係のシビアな現実においてやっていけるのか、という実験なのである。勿論、憲法9条に何がどう書いてあろうと、自衛隊は確固として存在しているし、国連PKOなどで何度となく海外派兵されているとか、沖縄を中心に米軍基地があり、そこから米軍機が飛び立っているから、事実上アメリカの戦争に協力している、というような問題がある、というのは、当たり前のことである。