セクシュアリティと資本主義

硝子たんさんはトランスジェンダーであるばかりでなく発達障害でもあるそうだが、そうすると、彼女が望むように新自由主義政策、ありとあらゆる規制の緩和・撤廃を実現したら、彼女自身が淘汰されてしまう可能性が高い。そして淘汰されるのは彼女だけではなく、日本社会や世界中の多数の弱者である。自分自身を滅ぼすような政策を熱烈に支持してしまう、しかもそうすることが自分の唯一生き残る方途だなどと信じてしまうのは悲劇的だが、一体どうすればいいのだろうか。

「資本は人間に無関心である」とマルクスはいったそうだが、確かに利潤だけが上がればいいというシステムは個々人の境遇や幸福・不幸を顧慮しない。それが厭なら、政府が創る法律によって企業を規制し縛らなければならないが、そういう規制を全部取り払って「自由」な社会にするならどうなるであろうか。

私の考え方では、彼女は彼女にとって非常に窮屈な「日本的世間」と、これまでの日本社会に存在した経済的規制などを混同している。だから、後者を解消し社会を「自由」にすれば、トランスジェンダーである自分も活かされ、多様性や差異が認められる世の中になるのだ、と思っているのである。そして、そういう人々は非常に多く、十代の頃の左翼や社会主義に著しく否定的だった私自身もそうであった。だが、日本的世間、ムラ社会、相互監視などと社会主義的な平等は区別されねばならない。常識的で平凡な意見だが、私はそう思う。

そしてそういうイデオロギーの持ち主が多いのは何もトランスジェンダーだけではない。二十世紀の後半のことだが、男性同性愛者、女性同性愛者も含めた数多くのマイノリティが、社会が資本主義的に成熟することが、そしてそれのみが、自分達の自由の実現であり権利の獲得なのだと看做したのである。そのことは、南定四郎と彼の委員会に向けられた批判がどういうものだったかを思い起こせばすぐに分かる。

それは別に間違いではない。資本主義では利潤さえ上がればよく、個々人は消費者として貨幣だけを持っていればいいから、伝統的な社会の規範や道徳などを解体する。それは日本のみならずインドで、またありとあらゆる社会で生じたことである。だから、宗教的な原理主義者は、かつて、レズビアンやゲイが集まるバーやディスコなどを爆破した。彼らにとって、消費社会を享楽するマイノリティは堕落した存在だったからである。

イスラーム革命が実現されると、女性や性的少数者の人権は著しく制約される。そのことは世界史の進行からみれば逆行なのかもしれない。しかしそれでも、多くの同性愛者などが「石打ち刑」や絞首刑などにされているのが、かつてのタリバーンアフガニスタンとか現在のイランである。そういうことが厭なのだとすれば(私自身は厭だが)、ではどうすればいいのだろうか。

日本のジャーナリストがインドのヒジュラを取材して書いたものを幾つか読んで窺えるのは、かつて、ヒジュラカースト制度と結び付いた宗教的な存在だったが、資本主義がインド社会に深く浸透した或る時期、恐らく二十世紀の後半から変容したらしいということである。つまり、「ヒジュラ」、という名称だけは残存しているが、内実はインド以外の社会に存在するトランスセクシュアルセックスワーカーと全く同一になった。性を転換し(かつては事実上去勢だったが、現代においては女性への性別変更である)、性を売ることには濃厚に宗教的な意味付けがなされていたが、そういうものも薄らいだ模様である。ジャーナリストの意見は、それは致し方がない社会の変化だということであり、恐らくその通りであろう。前も書いたが、1980-1990年代にインドからヨーロッパに移住した知識人が「ヒジュラ」というアイデンティティを主張していたが、それがインド社会に伝統的に存在していたものとは違っていたらしいということは、明らかである。伝統的なあり方には、当たり前だが、美点とそうではない部分、欠陥がある。例えば、かつてのインドの伝統社会では、性別違和を自覚したならば、それまでの自分の環境、自分が暮らしていた家族などの共同体から出て、ヒジュラの共同体に移らなければならなかった。それは貧しい人々でも、財産・社会的地位・知識がある人々でも共通の現実であった。生まれた性別を棄てるためには、自分自身が属していた社会を棄てねばならず、カーストの外部に追いやられねばならなかったということは、決して讃美されていいようなことではない。恐らく、資本主義の浸透はそういう条件を少し変えただろうと思うが、何も現実が薔薇色になったというわけであるはずがない。

その昔、インドの民衆はヒジュラの実態をほとんど何も知らず、神話、幻想を信じていた。その幻想の一つは、ヒジュラは元々男女両性として生まれてくるというもので、事実はそうではなく、ヒジュラの共同体で去勢手術(かつての場合)を受けてヒジュラになるのである。ヒジュラが男女両方の性器を持っているのではないかというのも思い込みで、昔は女性性器を形成するような外科手術の医療技術がなかった。神話なり幻想と事実、現実を対比するとこうである。事実、現実としては、昔の伝統的なインド社会において、自分は男性に生まれたが女性である、女性になりたいと思った人々は、家族などそれまでの生活環境を離れ、ヒジュラの共同体に移動して、そこで去勢手術を施されヒジュラとして生き始める。彼女達の生活手段、収入源は、売春と宗教的行為である。乞食、物乞いのようなこともやっていたのかもしれないが、そのいずれにもヒンズー教的な宗教的意味合いが想定されていたはずである。ヒジュラが街中で民衆から嘲弄されたり、金銭を巡って貰えなかったりすると、彼女達は衣裳をたくし上げて去勢された性器の傷跡を露わにし、自分を嘲った人に向かって、「お前にはヒジュラの子供が生まれる」と呪いを掛けた。そういう彼女自身がヒジュラなわけだから、その呪詛の言葉の意味合いは複雑だが、ともかく、ヒジュラは一つのカーストであるというよりも、私の記憶が正しければ、カースト制度から零れ落ちてしまったような存在、その外部であった。不可触賎民(パーリア)がカースト制度において社会から疎外され悲惨な境遇だったというのとはまた別の意味合いで、ヒジュラも特殊な位置付けであり、その位置付けのなかで生存していた。現実問題としては彼女達は男性から女性に性転換、性別変更したい性的少数者ということだったが、民衆は彼女達にあれこれ神話、幻想、臆測に基づくイメージを付与し、宗教的な存在だとみていた。そういうヒジュラは差別される穢らわしい存在であると共に、聖なるものでもあったが、そういう両極性、分裂は前近代においては非常に広く見られるものである。彼女達は乞食・物乞い、性を売る者・春をひさぐ者であると同時に、巫女であり宗教者でもあったのである。

資本主義経済の浸透がそういうヒジュラのあり方を変えたというのは、宗教が否定された、或いはその意味が掘り崩された(だから彼女達はインド以外のあらゆる国や地域でみられるようなトランスセクシュアルセックスワーカーになった)、というだけではなく、ヒジュラ同士の関係性も変えたはずである。というのは、伝統的なありようにおいては、ヒジュラの共同体には指導者とかそのグループを統治する年長のヒジュラがいた。日本でいえば前近代のやくざのようなものを想定すればいいと思うが、若いヒジュラは、自分が属する集団の指導者に、売春などで得た金銭の一部を納めなければならなかったのである。つまり、独立した小生産者、自分個人でただ単にヒジュラであり、性を転換し性を売る、という人々はほとんどいなかったということだが、そういう社会的諸関係が資本主義化によって少し変わり、伝統的な秩序が消滅してきているか、或いは、別のものに変わってきているという可能性がある。

それから単に資本主義化といっても、その効果、経験のされ方は多様で、タイの貧しい家庭(子供は彼自身の意思や欲望がどうあろうと、女性に性転換しセックスワークに従事するほうが金銭になると親から判断されれば、性転換させられてしまうし、そのことを拒否したり違和感を抱くような判断能力もない年齢だから、疑問を感じる余地がそもそもない)の場合と、先進諸国の自ら望んで自己実現するトランスジェンダーとは異なる。金銭、貨幣が重要だということは、それを持っている「自由」な人々と、持っていない人々とにどうしても分裂してしまうということである。金銭のためなら何でもしなければならない、という衝迫は、人格的な自由の実現とは真逆の状態である。しかしながら、資本主義市場経済において多くの人々がそういう窮境に転落するし、それに、第一世界と第三世界(東側諸国が崩壊したので、こういう表現は古いかもしれないが)の格差や差別もあるわけである。また、アジア・アフリカの諸国の内部にも階級格差がある。一部の金持ち・特権階級もいれば、そうではない膨大な庶民、貧乏人もいるわけである。

資本主義の徹底的な浸透、「近代」化がインド社会を変えたのかもしれないというのは、人々が素朴に信じていた宗教の実体性が掘り崩され、それまで漠然と思い描かれていた神話、幻想、イメージなどが実は現実に照らせば妥当ではなく根拠がないのではないか、ということを徐々に人々が了解し始めたということであろう。そこでは、性を売る行為には宗教的な意味付けはなく、ただ単に売買、取引、商業、貨幣のやり取りというだけの関係である。そして、実質上ごくありふれたトランスセクシュアルと同一になったヒジュラそのものにも、最早畏怖されるような神秘などない、ということになる。

私の考え方では、「ナマケモノになろう」、○○になろう、というようなナマケモノ倶楽部のスロー運動、それに限らず数多くのエコロジカルな運動、スピリチュアルな運動というのは、近代化によって決定的に喪われてしまった実体的な(というのはヘーゲルの用語だが、ここでは豊かで充実した意味内容がある、という程度の意味である)イメージを回復し、それがもはやないなら自ら想像力で創りあげよう、というものである。そして、ドゥルーズ=ガタリのいう「生成」、生成変化(devenir / becoming)も実はそれと変わらない。彼らは想像力とか想像作用など主観的な要素を否定するが、しかしながらどうみても、○○になる、女性、黒人、動物などになる、生成する、生成変化する、マイナーなものになる、というのは、想像作用のなかの出来事でしかない。それは物理的であるというよりも、倫理的であり美的である。もしそうでないというならば、ではどうして、「マイナーなものへの生成しかない」のであろうか。

近代(化)の本質をマルクスは資本制経済において捉え、マックス・ウェーバーは世界の脱魔術化として把握したが、そういうふうな徹底的な合理主義化──尤も資本主義は、資本主義そのものに独特の一種の信、魔術などを物神崇拝などのかたちで近代世界に導入するが──が人々から残酷に奪い去る大切な何か、伝統的な生活においては重要だった何かがあるわけである。近代以降宗教が否定された、少なくとも以前は人々の全員が自明且つ素朴に信じることができていたようなものではなくなった、ということから、共同性を想像的に回復し(再)構築するために「国民(nation)」の表象、ナショナリズムが要請されたのだ、というようなベネディクト・アンダーソンの議論があるが、20世紀以降においても、あれやこれやの契機、言説、理論などに依拠して、世界を「再魔術化」したい数多くの人々がいるのかもしれない。そして、魔術とまではいわないが、一定の感情的な次元、感情のエコノミーというものは、人間が生きていくうえで必要不可欠なものである。人は裸形の合理性とか、ただの剥き出しの経済的関係だけのなかで生活し続けることには堪えられないものなのである。

近代のナショナリズムは個体の死を意味付けるものである、というベネディクト・アンダーソンの意見を検討してみると、どれほど合理的であろうとしても、死という出来事・体験そのものや死後どうなるかということを知ることは事実上誰にもできないから、どうしても未知の領域、畏怖するしかない領域が残存する、ということである。だから、そういう理性や知性の及ばない部分を含めて、個体、その人の生(と死)を一定の秩序のなかに位置付け、安堵させてくれるような何かが要請される、それが前近代においてはもろもろの宗教であり、近代以降はナショナリズムなのだ、という言い分だが、近代以降、戦争が総力戦となり、戦士階級ではない多くの普通の市民、普通の国民が戦場で死ぬ、殺されることを国家から強要され、そしてその死を内面化し受容する論理、理由、根拠が与えられなければ彼らは納得しなかった、という事情もある。その場合の理由なり根拠として持ち出されたのが、「国家のために死ぬ」、というものであった。類 / 種 / 個というような田邊元的な区分を持ち出せば、人類、民族、個体ということだが、勿論個体が死に滅びるが、類、人類そのものは生殖や再生産などを通じて生き延びる、永続する(少なくとも人類が滅亡する日までは)、というのは明らかである。ところがナショナリズムは、「種」のレヴェル、民族、国民などの次元を導入する。そこで想定されるのは、漠然とした抽象的な人類一般ではなく、自分と文化、生活様式、言語、信念などを共有した他者達である。そういう一定の他者達、集団のために、或いは、戦時中の大日本帝国イデオロギーの表現でいえば「国体」のために死ね、というのが、近代国家が我々に押し付けてくる命令である。

ただ単に幻想を信じることも、ありとあらゆる幻想を否定し滅ぼすことも、いずれも抽象性に留まる。なぜならば、もし一切の幻想を斥けるとすると、我々に残されるのは、裸形の合理性(例えば科学が呈示する、数式で表現される法則など)、剥き出しの経済諸関係(貨幣を媒介した交換、取引、ビジネスなど)、「死」というそれ以上意味付けようのない事実性だけである。そしてサルトルの『嘔吐』の主人公が、ありとあらゆる主観的、人間的な意味付けを超えてただ単に「ある」だけのマロニエの根っこをまざまざと見詰めることに堪えられず吐き気を催したように、人間はそういう裸形のもの、剥き出しのもの、ただの事実性には我慢できないものである。だから、生を生き易く、楽しく快適なものにするというだけのためにも、一定の幻想、信仰、イメージは必要なのだし、「イデオロギー批判」を徹底的に遂行してありとあらゆるイメージを破壊するだけでは十分ではないのである。『暴力論』のソレルほど露骨ではなくても、20世紀のマルクス主義者達にさえも、何らかの神話が必要であった。そういう神話、リオタールなら「大きな物語」と呼んだであろうような何かがなければ、大多数の人々の心を動かすことは、どうしてもできないからである。

20世紀のマルクスレーニン主義者にとっては、「革命」がそういう神話であった。革命の必然性は『資本論』によっては根拠づけられない、だからグラムシがいうようにロシア革命、中国革命などは、良くも悪くも『資本論』を超えた革命だ、というような人々の第三者的な異論を彼らは聞き入れなかったであろう。1960年代の全学連新左翼などを批評して丸山眞男が、無意味に街頭やキャンバスで「肉体的にぶつかり合う」傾向は良くない、といったとしても、そういう言葉を人々が一切聞き入れなかったというのと同じである。後世の我々がそういう「行為」の現実的な価値、歴史的な意味はどうだったのか、と疑うとしても、それは当事者である彼らには無関係なことである。彼らは別に後悔など一切していないであろう。それから、「革命」というような誇大妄想はそもかく、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』の主人公、新しい「ギー兄さん」と彼の教団の人々にとっての神話は、原発に向かって行進し、祈りの力で原発を停止させる、というものだったが、文学というような作り話のなかではどうとでもいえても、我々が現実において合理主義的にだけいえば、祈ったから原発が止まるはずがないと思うのが普通である。それはそうだが、そういう主観的(主体的)で非合理な要素を全部否定して排斥することができないというのもまた、事実である。革命であれ原発停止であれ、そういうただの現在ある現実を超えた何かを信じないならば、現状は今あるがままであるよりほかはなく、変えようもないから、それを受動的に受け容れることしかできない、という諦念に到達するしかない。

ロシアや中国の革命が『資本論』の論述を超えていたというのは、主要には「段階の飛び越え」、つまり後進社会であったロシア、中国でこそ革命が実行されたということであり、故に、農民(貧農)層が最も重要であった、ということである。『資本論』はともかく、晩年のマルクスとロシアの女性活動家との文通から、ロシアに存在していた伝統的な人民共同体、農業的な共同体を基盤にした社会変革も可能なのではないか、という意見も出されていたが、現実の世界史の進行においては、ロシア革命を実行した後、レーニンスターリンも、経済発展、近代化、大規模工業化路線を徹底的に推し進めたわけである(レーニンの意見は、共産主義とはソヴィエト権力プラス電化である、というものだった。ここから、レーニン及びソ連を相対化するウォーラーステインの「世界システム」論が出てくる)。毛沢東にせよ、晩年に文化大革命を実行して、既にできあがってしまった支配・被支配の秩序などをぶっ壊そうとしたが、その現実的な結果は、膨大な数の人々が酷い目に遭ってしまったということである(例えば、都市住民とか知識層の人々の農村への「下放」とか紅衛兵など)。毛沢東文化大革命については現在も賛否両論があり、フランスの毛沢東主義者だけではなくネグリもそれに論及している。NAMでいえば、スペースAKの空閑明大(関西ブント)と柄谷行人の対立の理由の一つが、文化大革命の評価であった。空閑は、文化大革命は蒙昧とか蛮行ではなく、一定の歴史的意味があったのではないか、と考え続けており、その点で、柄谷と妥協することができなかった、ということである。

私自身の感想をいえば、柄谷行人の意見はどうみても「後付け」の評価でしかないし、彼のように考えるならば、毛沢東や中国人は野蛮だった、というような否定的で不毛な物の見方しか出てこない気がする。毛沢東も、中国革命を実現したのだから立派な政治家であるとしても、それでもやはり一人の政治指導者、政治権力者であり、そうである限りで、別に理想化したり美化して崇拝するような対象ではない、ということくらいはいえるのだとしてもである。

一般に過去の思想家や出来事(社会革命など)を現在の基準で裁いてみても仕方がないのではないだろうか。市野川容孝など小森陽一グループの知識人連中の議論への根底的な疑問はそこである。彼らによれば、ルソーには優生学的な思考があったという理由で否定されなければならず、「二つのJ」、つまりJapanとJesusというJを信じていた内村鑑三はナショナリスティック、愛国主義的であるという理由で斥けられねばならない。だが、ルソーの時代には優生思想や通俗的な社会ダーウィニズムなどの選別が問題視されることはまだなかったはずである。そして内村鑑三が生きた明治・大正の知識人が、当時の状況からして愛国的であったのはごく自然である。『余は如何にして基督信徒になりし乎』を読むと、内村が、ヨーロッパやアメリカの宣教師のアジア人民への蔑視や差別が余りにも酷いことに憤って、日本のみならず当時の中国を含めたアジアを擁護したということが分かるし、そういうことを非難することはできないのではないだろうか。後世、現在の我々が、左翼的、マルクス主義的、「批判的」な立場から、ナショナリズム愛国主義を良くないと判断するのだとしてもである。ロシア革命、中国革命、文化大革命などの歴史的現実もそれと同じである。柄谷行人のように、「20世紀の悲惨な経験は全部トロツキーが悪かった、全部彼に責任がある」などと責任転嫁してみても無意味なのである。

ごく簡単にいえば、トロツキーが何をどういおうと、人々がそれを支持しなければ、良いと思わなければ、現実に何の影響力もなかったはずである。しかしながら、「一国社会主義」でいいという現実主義とは別箇の、「永久革命(永続革命)」というような世界革命、世界同時革命に繋がるトロツキーの理想、理念、ヴィジョンに惹かれる人々が非常に多かったから、1950年代には共産党が「トロツキスト」を非難・罵倒し続けても影響力が衰えることがなかったのである。一国社会主義永久革命、最終的な世界革命の関係を考察すると、一つの株式会社が生産協同組合(労働者協同組合)に再編されることと、経済社会総体がアソシエーション化されるということの相違に重ね合わせることができる。協同組合化されるのが一つの企業だけなら、他にまだ存続している資本制企業との市場での競争に晒され、多くの場合、淘汰されてしまう。だから、その協同組合が存続できるように社会そのものが変わったほうがいいが、そういう環境を整えるのは非常に困難である、というようなジレンマである。