地域通貨について

(4)に関連して、十年以上前柄谷さんがイギリスの哲学者のことを書いていたのを思い出した。その哲学者は自分の哲学を地域通貨で売り、労働者に部屋の掃除をして貰ったそうだが、彼は自分の抽象的な思考・言説が具体的なモノ・サーヴィスと交換されたことに非常に驚いたそうである。

実際、違法な商品、例えばポルノや著作権侵害でなければ、何を地域通貨で販売しても構わないわけである。それは個人の自由だが、十年前にQで経験したことだが、地域通貨であってさえも消費者の選別があり、何でも売れるというわけではない。

売れないものはどうやっても売れない、という厳しい現実があるわけである。

売れないものは売れない、ということについて私自身はどう思うのかといえば、世の中そんなものであり、いきなりユートピアが実現されることはない、ということである。資本制でうまくいかないからオルタナティヴを志向する人々が非常に多いが、そういう甘いものではない。

地域通貨は私の印象ではマルクス経済学よりも近代経済学新古典派)の世界に近く、需要と供給だけに基づく交換を純粋に現出させようとした、という感じである。そこには階級格差とか剰余労働の搾取はないが、現実の世界はそういうものではない。

そもそもマイケル・リントンのLETSを日本に紹介しQを創った西部忠さん自身の立場が、ベルナール・シュミットではないが、「マルクス経済学でもなく近代経済学でもなく」、ということだったし、彼は元々『市場像の系譜学』で社会主義計算論争を研究していた人である。

社会主義計算論争とはソ連型の国有化・計画経済の是非を巡るもので、マルクス経済学者のみならずハイエク、ミーゼスも加わった。理論的にいずれが正しいかというより、そのうちソ連は行き詰まり解体してしまった。

西部忠さんが地域通貨、特にマイケル・リントンのLETSに注目したのは、「労働価値が事後的にも構成されない」と看做したからで、そういう意味で19世紀のオーウェンの労働証券、プルードンの人民銀行とは異なり、マルクスによる批判を免れる、と考えたのである。

想定してみればいいが、売り手と買い手が或る商品の交換で合意するとすると、地域通貨においてその価格は完全に任意である。「相対取引」ということで、取引の当事者を超える客観的で絶対的な基準(例えば、労働価値のような価値の基準)はそこには一切何もない。

それが現代的だし有効だというのが西部さんの考え方だったが、ドルや円ならみんなが使っているが、地域通貨は誰も使っていないので、そもそも普及が必要だし、人為的な貨幣は例えば外国人が受け取らないから通用しない、というようなヒューム(彼は人民通貨の実験以前の思想家だが)の反論をクリアしなければならない。

地域通貨の世界では、自分で貨幣を発行すればいいから、金銭のない貧しい人々などいない」というのは幻想である。というのは、私が自由に貨幣を発行することと他人がそれを受け取ることは別だからであり、個人レヴェルでなく国家レヴェルで自由に貨幣を発行したらインフレになるだけである。

だから現実問題としては地域通貨は象徴的な理念の社会実験の域を出ないし、それを超えた経済的効果、円と同等の流通などを求めるのは無理だし、みんなが不幸になってしまう。

私は地域通貨を批判したり否定しないが、それで生活できないのは当然承知しておくべきだし、自分の対価をいきなり全額地域通貨にして失敗した美容師などを見て、「そんなことはしなければよかった」と思った。

人工通貨(18世紀イギリスにそういうものがあったのかどうか知らないが)へのヒュームの批判は、彼が「習慣」の哲学者であり「新規なことを企てる」のに反対であったことと結び付けて理解すべきである。

「貨幣は流通するから流通する」、現に流通していることが貨幣の流通根拠であるという岩井克人の意見は、哲学的にはヒュームによってもラカンによっても解説できるが、とにかく現に慣習的に成り立っている信用制度や貨幣システムと、「まだない」からゼロから創造し普及せねばならないものとは区別しなければならない。

そして紙幣信用であれ金銀であれ、信用不安や恐慌においては、ただの紙切れや無意味なモノになってしまうから、現に流通し通用している貨幣だから安心だということにもならない。経済現象の仕組みはもっと複雑である。