思想史メモ その1

(1)思想(thought or idea)一般と哲学(philosophy)の違いの劃定。ショーペンハウアーヤスパースなどが漠然と考えたのとは異なり、ヘーゲルハイデガードゥルーズなどがいうように、哲学の思考はそれ以外の思考一般とは異なり、古代ギリシャ都市国家からヨーロッパにおいて特定的に展開されたものである。

思想や思考が存在しない時代や地域はない。たとえ神話や民話、伝承などのかたちであっても、何かしらの考えがいつでもどこにでも存在している。だが、哲学のようなかたちで論理性や一貫性を追求する思考様式は、稀であり例外的である。

(2)思想なり思考の原初的光景。世間で「四聖」といえば、孔子、釈迦(仏陀)、ソクラテス、イエスのことである。ヤスパースはそれらを全部考察しようとするし、柄谷行人も同様である。だが、そういうふうに「世界的」にみることができるのかどうかは分からない。

ただ、孔子ソクラテスにおいては、近世・近代的な概念枠組みではあるが、個人と共同体の深刻な衝突や葛藤をみることができるのではないだろうか。孔子は彼の考える理想の政治を実現しようとしたが、当時の中国に存在した国々のどの政治権力者からも用いられることがなかった。ソクラテスは、自分こそアテナイ唯一の真の政治家だと主張していたが、現実には無力であっただけではなく、人民裁判で死刑にされてしまった。

古代世界において、政治という範疇から切り離され純粋化された思想とか哲学はなかったかもしれない。だが、ソクラテス以前の哲学者、いわゆる「賢人」達は、民衆から尊敬される政治指導者として生涯を送ることができていた。ところが、ソクラテスにおいてはそこが決定的に異なる。ニーチェのように近代的な眼で読み込むならば、そこには悪意やアイロニーがあった、ということになる。本当にそうだったかどうかは分からないが、ソクラテスにおいてそれまではなかった何かの躓き、違和、衝突が生じたのは歴史的な事実である。

そういうソクラテスの事例のようなことが一般的にいえるのかどうかは分からないが、例えば、イエス・キリストを分析するD.H.ロレンスドゥルーズの考え方では、イエスにおいては「衆の心」と「個の心」があり、その分裂をどうすることもできなかった、ということである。イエスにはカエサルのものはカエサルに返させしめよ、という考えしかなかったのである。ロレンス、ドゥルーズにとっては、そういうイエスの宗教思想、倫理思想は、極めて個人主義的、貴族主義的なものであり、故に、粗野な大衆、「衆の心」への接近ができず、最終的に殺されてしまったのだ、というようなことである。

古代、中世、近世、近代、現代と歴史が展開するなかで、社会思想なるものが徐々に形成されてきたが、昨日検討したルソーの事例のように、その成立には繊細微妙な要素が含まれる。社会契約の瞬間に一挙に公共性が生誕したかと思いきや、そこから零れ落ちてしまった個人的で私的な要素が告白体の文学として回帰してくるし、ルソー自身も被害妄想に駆られ、フランスの百科全書派のみならずヒュームすら信用できずにヨーロッパを彷徨い続けなければならない。だから、近代社会が生まれ落ちた瞬間というのは、そのように悲惨なものであり、暗部を無視して積極面だけ採り入れることなどできないのである。

ここで一旦送る。