「さらっと読む」ほうがいいでしょう。

吉本隆明が「解らない」のは、吉本の文体、書き方のせいもありますから、致し方がないですよ。古本屋のおやじの意見も、「リュウメイは難しいよ」というものでした。 RT @nakagawasun: 昨日ユースト聴いていてほとんど解らなく聞いていた

それはもちろん「さらっと読む」ほうがいいでしょう。 RT @nakagawasun: 知識人と大衆、とする構図が何か…本人が知識人と自認するからというより、何か…(中略)構図ってとらえかたをしないで読んだ方がいいとか…とりあえず、さらっと読んでおこうとしてるところです。

「知識人」がどうのということはともかく、「大衆」については吉本隆明は50年代から言い続けていますし、80年代にサブカルチャー(TVのお笑いや広告のコピーなど)を非常に重視したのも、吉本なりの「大衆」観があったからなんじゃないでしょうかね。 RT @nakagawasun: 知識人

吉本隆明にも「深刻な思想」はあるが、万人向き、大流行するというようなものではなく、50年代には「表現としての沈黙」、「失語」などと詩論として展開され、80年代には「解体」になった。

「解体」を一言でいえば椎名誠などのサブカルチャーの表現が幾ら饒舌に喋っても有意味な内容を伝達できないというもので、椎名誠=自殺を禁じられた太宰治というのが吉本の意見である。

そして吉本自身は、自らも「解体」にどこまでも寄り添おうとしたが、特にゼロ年代以降うまくいかなかった、ということである。

「自分が真実を口にすると世界を凍り付かせるという妄想のせいで自分は分裂症者であるそうだ」というような詩を世の中の読書人の99%が喜んで読み、受け入れただろうとは私は思わないので、そこには何か誤解があったのではないかと思う。

一つだけいえるのは、吉本の言説を「遠くから眺める」だけなら楽しいかもしれない、ということだ。吉本自身のように、労働運動で延々と敗北し続けるとか、三角関係で非常にしんどい思いをする、とかいう目に遭うのは誰でも厭だろうということである。

しかしながら、労働運動や恋愛などの文脈を取り去ってしまえば、「関係の絶対性」という吉本の考え方には「憎悪」という抽象的な内容しか残らない。

吉本隆明の自意識としては「インテリは大嫌いだ」ということだったのではないでしょうか。吉本が柄谷行人を批判した理由は、柄谷が「大学で教えている」、大学人である、文芸ジャーナリズムにはたまに出てくるだけ、とかいうことでした。 RT @nakagawasun: メインは大衆だったので

少し感想をいえば、『千のプラトー』のいう「公的教授」と「私的思想家」というのは、実際上はアカデミズムとジャーナリズム、大学人と批評家、というくらいの違いでしかないのではないだろうか。そしてそうだとしたら、それぞれが成り立つ条件を経済問題を含めて劃定すべきである。

歴史的な事実をいえば、大学に依存せず「筆一本」でやっていけた幸運な批評家は吉本隆明くらいしかいない、というのが現実である。

吉本がどうしてそうできたのかというと、69年以降人気が急上昇して爆発的に読まれたからである。それで吉本本人と周囲は、技術者として勤務していた会社を辞めてももう大丈夫だ、と熟慮の末判断して辞めたのである。

そんなにややこしいことを申し上げているわけではなく、「無意味にアカデミシャン、大学人を敵視しても仕方がないのではないか」、といいたいだけですが。 RT @nakagawasun: フックのように単語が「私的思想家」と

@nakagawasun 少し歴史的なことをいえば、19世紀以降西欧の思想家の多数は大学教授になりましたが、一部の実存哲学は違ったということで、それが「公的教授」と「私的思想家」ということですけれども、実存哲学者といえども霞を食べて生きていけるわけではありませんからね。

実際キェルケゴールが生きていけたのは、「父親の遺産があった」、というシンプルな事実が理由であり、彼には自分の著作を「売る」ことなど夢にも考えられず、印税収入がちょっと入ってきただけで「超ビックリ」している。そして死ぬまでにはその遺産も全額使い果たしてしまった。