「息しているのも不思議だぜ」

2012年現在よりも酷い状況があり得るのかとも思うが、2003年には病気(精神病)が重篤であった。個人的にはNAMの崩壊、社会的にはイラク戦争などで、公私共にピリピリした神経質な雰囲気だったということを覚えている。

当時、岡崎乾二郎とその周りの人々が実行した「名所・旧跡でも」というのがあったのだが、私が憶えているのは、美術館や名所・旧跡がいかに美しかったか、というようなことではなく、どうでもいいような何処かの定食屋で「牛丼」を食べたというようなことだけである。

当時岡崎乾二郎は彼が描いた反戦イラストをシールにして、社会的にも評判だったが、そのシールを通行人に配布することになったが、私の配り方が余りに雑駁だというので、岡崎はご機嫌斜めであった。

御茶ノ水駅だったと思うが、体調不良で座り込んでしまい、周りの人々から心配された。当時そういうことはよくあった。パレスティナの「アパルトヘイト・ウォール」に反対するというイヴェントが何処かの公園であり、実験君と二人で行ったが、そこで顛倒してしまった。「コントミン」というメジャートランキライザーのせいである。

さて、中谷礼仁は、私の変な言動の「無意識」を楽しむとかいう人であった。例えば、イラク戦争のとき浅草寺に御参りに行くとすると、戦争=浅草寺で駄洒落になり、故にそこに「無意識」があるのだという読み方である。そしてそれはそれだけではなく、彼の「読み方」はそういうものであったが、私には非常に不愉快であった。

中谷のゲームは、樹木か何かの写真を見せ、何を連想するかを問う。ところが、そこで「男性性器を連想する」とかいってはならなかった。そういうものは素朴、粗野、単純な連想だから駄目で、もっと精妙、高度、複雑な連想をしなければならない、それが中谷のゲームのルールだったのだが、そもそも「連想」とはそこまで考えてやるものではなく思いつきを述べるもので、故に、中谷のいうようなものにしようと思えば、「連想」ではなく「熟慮しての応答」でなければならないはずである。だから、中谷礼仁の連想ゲームなどぶっ壊したほうがいい、と私が感じたのは、当たり前のことであった。