奇妙な夢〜最初の言葉

具合が悪いので2時間休んだが、奇妙な夢を見た。大学生君のピアノのレッスンだが、レッスンは終わり、彼はピアノを弾き終えたのだと勘違いして、私は、有線放送でソロ演奏のジャズ・ピアノのチャンネルを聴いた。それから、気紛れに、クラシックのCD、ウィルヘルム・バックハウスが演奏するベートーヴェンのピアノ・ソナタのCDに替えた。ところが、大学生君のレッスンはまだ終わっていないことが分かった。私は音楽を止めようとしたが、どういうわけだか、バックハウスの演奏が鳴り響き続けていた。そういう夢である。

それはそうと、目醒めてから私が考えたのは、誰かの或る発言、或る言葉をそのものとして聞き、理解するのはいいが、その発言が成り立つ条件を考え始めると、さらにまたその条件…というふうに無限後退に陥る、ということである。ドゥルーズが『意味の論理学』で簡単に言及しているが、或る命題Aの「意味」があるとすると、その「意味」もまた言語によって、即ち別の命題、例えば命題Bによって表現される。そうすると、その命題Bにも「意味」があることになり、それは命題Cによって表現される、というふうに無限に続き、果てしがない、ということである。

どうしてそういうことを考えたのかというと、カンギレムの以下の意見を読んだからだ。

「認識論的な次元のそうした確認を、認識作用についての哲学の平面に移し替えるならば、科学者たちが自らの実験的な知についての哲学にまで上昇するとき、彼らが無批判にしばしば採用している、経験主義的な紋切り型の考え方に抗して、われわれは、理論は決して事実から生じるものではない、と言わねばならない。もろもろの理論は、しばしばとても古いこともある以前の諸理論からのみ生じる。事実というものは真っすぐなことが稀な道でしかなく、その道を通って諸理論は互いに他の理論から生じるのである。」(ジョルジュ・カンギレム『生命の認識』杉山吉弘訳、法政大学出版局、p.52)

少し説明すると、カンギレムは、カール・ポパー卿やトーマス・クーンの科学哲学に反対し、ガストン・バシュラールの科学認識論を支持する。論理的経験主義に反対し、合理主義を擁護するカンギレムの姿勢はそこから出てくるが、元々のバシュラールの「否定の哲学」、「認識論的障害」という考え方は、非科学的、前科学的な一定の理解がなければ、科学的な認識が生じることはない、というものである。それまで存在していた前科学的な了解を否定し、断ち切り、棄て去るという強い運動によってのみ、科学的で合理的な知が生じるのだ、というのが、バシュラールの基本的な発想だが、それについて幾つかの問題がある。

まず、バシュラールは、前科学的なイメージ、了解を「ただの誤謬」として否定し棄て去ってしまうが、しかしながら、科学的な知以前に存在していたそういう考え方はそれなりに魅力的なものである。そういうところから、バシュラールにおける科学認識論と文学論、詩論の分裂が生じる。科学を論じるバシュラールは、非科学的なものを断固として否定し、それを嘲るが、詩論の彼は別に科学的ではないイメージ、例えば、「水」、「空」、「大地」のイメージなどを愉しみ、それと戯れるのである。成功したかどうかまで知らないが、ミシェル・セールは、バシュラールのそうした分裂、二元性をどうにかして超克しようとしたはずだ。

もうひとつは、科学的な知以前に前科学的なものがある、というならば、遡行すれば必ず「最初の言葉」、最初の理論があるはずだ、ということである。哲学的な思考が始まる、創始されるためには、そもそも前哲学的な了解、「平面」がなければならないというドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』でも同じだが、哲学以前、科学以前の最初の言説、最初の「理論」があったはずだ。そしてその「最初の理論」は、定義上、カンギレムがいうのとは違って、別の理論から導かれたわけではなかったはずである。なぜならば、「別の理論」などまだなかったのだから。

そういうものとして我々がとりあえず知っているのは、オルフィウス教、及び初期の宇宙開闢説、宇宙論コスモロジー)、神話である。例えば、まずカオス(混沌)があり、そこからいろいろの仕方で現在の世界が生じてきた、というような説明だ。万物の始まり、根源を「水」だと看做すタレスの合理的な(少なくとも、合理的で一貫しようとした)思考は、そのような神話・物語の批判的検討から出てきたのである。そして、「水」、とだけいって済むはずがないから、その後数千年間にわたる自然探究が続けられてきたのであろう。

それはそうと、タレスが「水」、と考えたのは、生き物はどうも「湿ったところ」から生じるようだ、というような漠然とした経験的観察からではないか、ともいわれることがあるが、カンギレムの著書の題名ではないが「生命の認識」は、その古代的な形態(イオニア自然哲学からアリストテレスに至る)から19世紀のロマン主義を含めて、総体的に為されなければならない、と思う。