inseparability

廣松渉は彼自身の考え方、「実体論から関係論へ」とか「事的世界観」を、仏教思想に親和的・類縁的なものと考えた。確かにそうかもしれないが、もしそうだとすると、マルクスエンゲルスの唯「物」論(materialism)との関係はどうなるのだろうか。

私の考えでは、そもそも「物」から「事」を簡単に、或いは抽象的に切り離して対立させることはできないし、またするべきでもない。前哲学的、前反省的な日本語表現を考えてみても分かると思うが、我々は漠然と、「○○というもの」、「○○ということ」をそれほど区別せずに使っている。そして、それでいいのである。

ホワイトヘッドの"event"とドゥルーズの"evenement"の意味内容は正反対といってもいいほど違うが、それでもやはり「出来事」に定位したことは確かである。そうすると、彼らにおいても、廣松渉の場合と同じように、「物」から「事」にシフトしているのだろうか。そういう簡単な話ではない。

ドゥルーズはともかく、ホワイトヘッドならば"entity"(存在者)を考察しなければならない。そして、彼が"event"と呼ぶものも、我々が通常イメージするものとは少し違っている。ドゥルーズが彼のライプニッツ論『襞』でホワイトヘッドに言及しながら指摘していることだが、例えば、我々が"event"、出来事といって想像するのは、2012年6月24日午後3時に私(=攝津正)が二和向台の十字路で自動車に轢かれて即死した、というような、具体的な日付があるような何かである。それは"accident"といってもいいのかもしれない。

しかしながら、ホワイトヘッドが考える"event"というのはそういう類いの事故、一瞬のうちに生じる出来事だけではなく、「エジプトに二千年間ピラミッドが存続している」というような超長期的な推移、過程でもあるのだ。ドゥルーズは「ピラミッドが二千年間存続している」ことも"event"だというホワイトヘッドの考え方に驚いているが、確かにそれは、我々が常識的に考えるような"event"の概念ではないし、「物」から「事」へ、とか簡単に割り切れるようなものでもない。ピラミッドが二千年間建ち続けているならば、我々の多くは、それは堅固な存在だから、「物」ではないのか、と思うであろう。しかしながら、ホワイトヘッドはそういう堅固で持続的な何かさえも「事」の相において、言い換えれば"event"の相において考えた、ということなのである。私の意見は、何か「物」、事物のようにみえるものも実は人間相互の社会的諸関係なのだ、とか、「物」から「事」へ、「関係の束」、とかいうふうに性急に考えるべきではなく、我々の現実、存在(者)などの具体的なありよう、ステータスをよく吟味してみたほうがいい、ということである。

それから、私がいいたいのは、廣松渉のいうのとは異なり「事」と「物」は事実上不可分ではないのか、ということだけではなく、そういう"inseparability"(不可分性)が一般的にいえるのではないか、ということである。

例えば、ドゥルーズが新哲学者達の「人権」思想に激しく反撥するのは、彼にとっては「普遍的人権」はあるのかないのかも不明なような"fiction"、超越的な「自然法」によって根拠づけられるしかないようなものだからである。そして、彼の考えでは、「法」など抽象的であり、「力(pouvoir, puissance)」という具体的な相において考えなければならない、ということになる。

それについての私の考え方は、事実上、「法」と「力(或いは、力能)」を分けることはできないのではないのか、ということである。

ヘーゲルの"Grundlinien der Philosophie des Rechts"は昔は『法の哲学』と訳されていたが、最近では『法権利の哲学』と訳してあるものもある。"Rechts"というドイツ語の意味内容の理解が問題なのだということだろうが、「法」と「権利」を抽象的に分離することはできない、ということなのではないだろうか。

事実、我々に事実上「力」、「力能」があると言い張っても、法、或いは制度の裏付けがなければ空疎である。我々は、一定の具体的な肉体として生物学的に実存しているから、日本の法律であれ、そうではない「法」(例えば、実定法とは違う倫理)であれ、それらを全部無視して、例えば加藤智広のように人々を無差別に殺傷することもできるのかもしれない。しかしながら、そういう行為の結果は、当然、逮捕、収監、処刑である。少し皮肉にいえば、そういう行為も可能だというのは、「処刑される自由、人権もある」というだけのことである。同様に、日本社会、或いは世界を構成する人民の大多数が立ち上がればそれは「蜂起」であり「革命」だが、私が街頭でただ一人「蹶起」したら、それはただの個人的な──社会的な意味など全く何もない──「犯罪」である。

"inseparable"(不可分離的)であるのは、それだけではない。『構成的権力』のネグリがいう「構成的権力」と「構成された権力」、「生政治」と「生権力」も不可分である。何らかの主体的な「力」、「力能」を起源に想定してみても、具体的な「憲法」その他の法や制度によって実現されなければ、実際上無意味だからである。そしてネグリのそういう発想の根底にあるスピノザの『エティカ』の"natura naturans", "natura naturata"も不可分である。"natura naturans"は「能産的自然」、「産み出す自然」などと訳され、"natura naturata"は「所産的自然」、「産み出された自然」などと訳されるが、スピノザの内在的な汎神論の決定的な論点は、「産み出されたものから産み出すものを抽象的に切り離すことは決してできない」、ということなのだ。

さらに、ソシュールにおける"signifiant", "signifie"も不可分である。ソシュールによれば、それらは、「一枚の紙きれの裏表のようなもの」である。だから、或る一定の言葉、一定の"signe"(記号)があるならば、必ず"signifiant", "signifie"があるということだが、「能記」と訳されることもある"signifiant"、「所記」と訳されることもある"signifie"に、スピノザの"natura naturans", "natura naturata"にまで、或いはもっと古くまで遡る思考の伝統を看て取ることは容易であろう。

そして、そういうことは、ラカンがいうような"signifie"なき"signifiant"、主人としての"signifiant"、主体としての"signifiant"などといった概念が果たして本当に成り立つのだろうか、ということでもある。ラカンの言語思想がソシュールを大いに参考にしながら、そのソシュールとは全く異なっていることは文献的事実である。勿論ソシュールそのままでなくてもいいのだが、ラカンの考え方は、我々にとって、受け入れることができるような合理的、現実的、説得的なものなのだろうか。