寺山修司寸評(続きの続き)

寺山修司の表現活動は短歌に要約されるが、彼の最も有名な一首は、マッチをつかの間擦ることと「祖國」を思うことを結び付けたもので、なるほど深刻ではなく「軽い」ものだが、それでも一定のナショナルなもの、ナショナリズムを感じさせるものではある。晩年の『田園に死す』はともかく、寺山の初期の短歌は、戦後世界にこれほど瑞々しい叙情が可能だったことに驚かされるようなものだが、そのような「瑞々しい叙情」がどのような条件で可能だったのかを考えるべきではないだろうか。

伝記的な事実は、若き日の寺山修司が重い腎臓病で入院しており、友人連中など周囲から死を予感、確実視されていたということである。高校生の頃寺山修司は俳句を作っており、俳句をやる高校生の全国組織を作ろうとしたり、俳句の結社に入ったりしているが、遺された作品を読んでも、寺山の才能はやはり短歌においてこそ大きく花開いたものだとみるべきではないだろうか。そして後年の叙事詩、少女詩集、小説、戯曲などを全部考慮しても、短歌表現が最良だということは間違いない。

そして同時代人としては、『乳房喪失』の中城ふみ子を想起すべきである。そもそも明治時代の正岡子規がそうだが、病い、それを死を意味するような重篤な病いと(近代)短歌には何か本質的な関係があるのではないだろうか。勿論、斎藤茂吉塚本邦雄など別に病人ではない歌人も大量にいるから、病いと短歌を拙速に結び付けるべきではないのかもしれないが、少なくとも20歳前後の寺山の場合は、腎臓病や死の予感と短歌表現における叙情に関連があるのではないか、と推測してみてもいいと思う。