寺山修司と思想家群像

寺山修司について指摘しておくべきなのは、1960年の安保闘争のとき『天井桟敷』の若い劇団員がデモに行こうとしたら、「デモに行くな」と体を張って強引に止めたのに、68-9年の全共闘には積極的だったということで、このことから、寺山にとっては「68年革命」は何らかの具体的な政治的目的があるものではなく、祝祭的なものだったのではないか、と推測することができる。

また寺山は、フーコー柄谷行人など当時の思想家とも多く対談しているが、フーコーなども応対に困っただろうというような突拍子もない意見ばっかりいっている印象である。

吉本隆明との関わりでいえば、吉本が寺山を名前を挙げて直接論評したことはなかったと思うが、『言語にとって美とはなにか』の演劇論のはっきりした論点は、「舞台」という枠組みを否定する現代演劇、前衛演劇への強い批判であり、具体的に寺山の演劇が念頭に置かれていようといまいと、『人力飛行機』など寺山の第二期の実験演劇が完全にその批判の対象に入るのは確実である。吉本にとって、「舞台」なら「舞台」という枠組みを尊重し守って初めて、演劇という虚構表現は自立的になり成立するものであった。