寺山修司寸評(続き)

寺山修司の演劇は「想像力」派といわれたが、寺山の「想像力」は、唐十郎の「肉体」などとは違っている。寺山が遺した表現を読んで感じるのは「肉体」、具体性の不在である。彼はどこからどうみても「言葉」の人であり、言葉の魔術師、呪術師、要するに詩人であり歌人であり続けた、という印象だ。例えば、晩年の実験映画『田園に死す』の世界は、同名の歌集の世界と地続きである。

寺山がネフローゼであり、若くして死ぬと思われていたこともそれと恐らく関わりがある。寺山の友人達が彼の歌集を出版したのは、重い腎臓病の寺山が死ぬだろうと予想したからだが、彼はそのときは生き延びた(だが、40代だか50代の若さで病死した)。

寺山を有名にしたのは、大量のエッセイや雑文、例えば『書を捨てよ、街へ出よう』、『家出のすすめ』などだが、1980年代の浅田彰も顔負けと思えるほどの無責任さで若者を煽動し続ける寺山修司にとって、演劇や映画などといったより大掛かりな集団芸術が、もっと大胆・大規模なパフォーマンスであったろうことは、想像に難くない。