寺山修司寸評

寺山修司の演劇活動の時期を幾つかに区分することができるが、まず始まりは、「見世物の復権」である。立ち上げられた「天井桟敷」には美輪明宏が在籍しただけではなく、小人・大女などフリークスもいて、観客を挑発したはずである。

それから、第二期は『人力飛行機』などの街頭に出ての実験演劇である。寺山修司は「劇場」という枠組みを否定してしまったし、日常と非日常、ドラマとドラマでないものの区別も取り払った。寺山修司の演劇はそこで終わったわけではなく、更なる模索があったと思うが、手元に資料がないので詳述することはできない。

1960年代以降に存在した大量の実験演劇のなかで寺山修司を際立たせているのは、彼が詩人であり、演劇の素人だったことであり、もう一つは彼の腎臓病(最終的に寺山の生命を奪った)である。寺山修司はプロではなかったが、独裁者であり、奇想天外な「アイディア」、思い付きの実現を「天井桟敷」の劇団員やスタッフに強いたが、それが良い結果を生んだ場合もあればそうではなかった場合もあるはずである。