想像力より高く飛べる鳥は…

"To be, or not to be: that is the question"、「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」と言いながら、寺山修司はこの英文を「飛べ、飛べ、もっと飛べ」と訳したはずだが、『人力飛行機ソロモン』だっただろうか。私は勿論、世代的に、劇団「天井桟敷」の舞台を観たことはないが、寺山修司の戯曲は全部読んだし、映画『田園に死す』も観たが、幾つか感想がある。ひとつめは、寺山修司の戯曲は、純粋な読み物としては、唐十郎野田秀樹ほど面白くないのではないか、ということであり、ふたつめは、一見「前衛的」、「実験的」な『田園に死す』の世界の本質が前近代的なものなのではないか(例えば、恐山のイタコなどの東北の風景)、ということである。前近代的な呪術性をいきなり現代に復活させようとしたところに、柳田國男の『遠野物語』から国家論を展開しようとする『共同幻想論』の吉本隆明と通底する「気分」、時代性があったのではないか、という推測もしてみた。

民俗学から国家論を展開するのはどうみても無理筋ではないか、と、2012年の現在だったら、読者である私は思うが、『共同幻想論』が発表された当時大いに読者大衆から評価され、「レーニンの国家論よりもいい」、などといわれたのは、その晦渋な文体も相まって、その前近代性、「呪術性」のせいではないだろうか。現代においても、その「巫女論」に近代国家を超える何かがあるのではないか、と期待する論考をたまに見掛ける。合理主義的にだけいえば、別に「巫女」などを持ち出しても近代国家を超えることができるはずがないが、そういう人々がいるのも致し方がないことである。