マルクス『資本論』

「労働力の売りと買いとが、その柵の内で行なわれている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権の真の花園(エデン)であった。ここにもっぱら行なわれることは、自由、平等、財産、およびベンサムである。自由! なんとなれば、一商品、例えば労働力の買い手と売り手は、その自由なる意志によってのみ規定されるから。彼らは自由なる、法的に対等の人として契約する。契約は、彼らの意志が共通の法表現となることを示す、終局の結果である。平等! なんとなれば、彼らは、ただ商品所有者としてのみ相互に相関係し合い、等価と等価を交換するからである。財産! なんとなれば、各人が自分たちのものを処理するだけであるからである。ベンサム! なんとなれば、両当事者のいずれも、ただ自分のことのみにかかわるのみであるからである。彼らを一緒にし、一つの関係に結びつける唯一の力は、彼らの利己、彼らの特殊利益、彼らの私的利益の力だけである。そしてまさにこのように各人が自分のことだけにかかわって、何人も他人のことにかかわらないというのであるから、すべての人々は、事物の予定調和の力で、あるいは万事を心得た神の摂理のおかげで、はじめて彼らのお互いの利益、共通利益、総利益のために働くことになるのである。

この単純流通、または商品交換の部面から、俗学的自由貿易論者が、資本と賃金労働の社会についてのいろいろの見解や概念を、そしてその判断の基準を得てくるのであるが、いまこの部面に訣別するに際して、わが俳優たちの相貌は、すでに何かちがったものになっているらしい。先の貨幣所有者は資本家として先頭に進んでいる。労働力所有者は、その労働者として彼の後に従っている。一人は意味深そうにあいそ笑いしながら、業務に心を奪われた人のように。他の一人は、おずおずといやいやながら、ちょうど身を投げ出して尽くしても、もはや──打ちのめされるほかに、何も期待できない人のように。」(カール・マルクス資本論』第一分冊、向坂逸郎訳、岩波文庫、p.306-307.)