sur le contrat social

さっき書き忘れたが、社会契約(le contrat social)は、最低限擬制(une fiction)だし、もっと酷い場合欺瞞(une mystification)でさえある。初期の吉本隆明の主著の題名が『擬制の終焉』だったことを思い起こしてもいいだろうが、但し、吉本が「擬制」といって斥けるのは、社会契約思想などではなく、戦後民主主義でありスターリニズム共産党であった。

また、マルクスが『資本論』で、ジェレミーベンサムなどの「契約」思想をどれほど痛切に皮肉っているか、というようなことも重要だが、マルクスが批判したのは、社会契約思想ではなく労働契約であった。

だが、「契約」などが「擬制(une fiction)」、「欺瞞(une mystification)」なのはどうしてなのか、熟考してみたほうがいい。それは、対等な諸個人が自由な意志と理性的な判断だけで合意し、一般的なもの、共同のものを創る、ということであるはずがない、ということである。

まず政治、政府、国家権力のほうからいえば、国家権力の成立に際しては、端的な支配者、権力者の暴力があったはずだ、というのが、ヒュームの基本的でリアルな洞察である。別に、事実そうだったからそれでいいのだ、とか、正当化されるということではない。世界史を公平に見るならば、それを動かす動機や理由は倫理、善、正義、公平、対等などではなく、暴力、力であり、さらに、不平等、圧倒的な格差なのだということである。その暴力支配を受け入れざるを得ない、ということこそが「黙約」の意味である。

それから、労働契約についても、資本家(経営者、雇用主)と賃労働者の力関係が対等であるはずがない。個々の状況は違うが、賃労働者の場合、自分の労働力以外に売るべき商品がなく、労働力を売らなければ生活を営めないケースもある。そうすると、彼(彼女)はそこで足元を見透かされ、決して有利とはいえない労働条件を飲まされてしまうかもしれないわけだ。それは19世紀のイギリスにおいてそうだっただけではなく、21世紀の日本でも同じである。

社会契約(le contrat social)=擬制(une fiction)、欺瞞(une mystification)ということをもう少し掘り下げると、20世紀の英米系の政治哲学・社会思想、今すぐ文献を参照できないがノージックなどだったと思うが、そういう理論家連中も「社会契約」を参照するが、それは単に権利上、理論上のものである。事実としては誰も「契約」などしていないとしても、起源に「契約」があったと想定しなければ──そういう歴史を「捏造」しなければ──、現在ある支配・被支配の関係、社会体制・現存秩序、力関係・権力関係を説明できず、正当化もできないというものである。そういうものは擬制であり欺瞞なのだというべきではないのだろうか。

「実際には我々は誰一人契約などしていない、個別的な意志・権利を抛棄・譲渡することに同意していない」、だから、現実に「契約」をやり直すべきだ、というのが、「連合主義」というプルードンの考え方だが、その問題点は、我々数名、数十名、数百名程度が「契約」をやり直しても、別に、客観的な社会そのものはびくともしない、ということである。