le contrat social comme une fiction

さて、14歳のときにルソーの『社会契約論』に疑問を持ったし少しも同意・賛同できなかった、ということだが、吉本隆明の意見への支持はともかく、ルソーの社会思想の拒否を、私は今でも取り消すつもりはない。

というのも、20世紀以降どうだったかということより先に、ルソーの同時代において、「社会契約」という想定を疑わしいと思い、否定した人々がいたからである。英語の原語で何というのか知らないが、ヒュームにとって大事だったのは、明示的な契約ではなく「黙約」だったが、それは習慣、慣習を重視する彼の考え方──保守的な、といっていいのだろうか──から出てくる。彼は古代世界において最もたいそれた罪、叛逆と看做されたのは、「新奇なことを企てる」ことだったと指摘している。

『国家論』のスピノザも、「社会契約」思想に微妙だが決定的な修正を加える。スピノザは、ジョン・ロックの社会思想と異なり、超越的な「自然法」ではなくリアルな「自然権」を重視するが、その個々人の自然権、ルソー風の用語でいえば個別的な意志は、もし「社会契約」があるのだとしても、「一般意志」に完全に譲渡され廃棄、抛棄されてしまうわけではない。そういうスピノザの留保の意味を考えてみると、たとえどんな理想的な国家、共和国ができても、最終的に肉体として実存している個々人、個体の意志、欲望、衝動などを消し去ることなどできないし、一般者と個別者(の利害)が完全に一致したり、前者に後者が還元されることはないのだ、ということであろう。

ただ、ルソーの『社会契約論』には、検討すべきいろいろな問題がある。まず、岩波文庫から出ている桑原武夫などの共同翻訳だが、日本語として読みやすくしようとあれこれ工夫してみた結果、却って分かりにくくなった形跡がある。そして、内容をみても、ルソーによる「直接民主制」の主張、媒介とか具体的な過程などがない「個別意志」から「一般意志」への突然の飛躍、そういう瞬時の「社会契約」が事実上のものなのか(つまり、歴史的なものなのか)論理的なものなのか、「中間団体」の問題、ルソーが想定する国家の適切な規模(大き過ぎず小さ過ぎず)、などなどが問題である。