2012年6月20日(水)、Facebookにて、吉本隆明について考える。

マルクスに限らず「資料」総体というのは難しい問題で、例えば吉本隆明にしても、彼が膨大に書き散らしたテキストの全部が『著作集』に入っているわけではなく、地域の図書館の資料も一部だから、全部調べようと思えばそれこそ国会図書館にでも行くしかないし、国会図書館に行ってさえも、彼が出していた同人誌『試行』のバックナンバーは読めないかもしれない。

そうすると、吉本隆明の全体像、全貌を論じるのは難しいということである。確かに彼のテキストには重複が多いから、全部読まなくても主要な論文だけ読めばいいのかもしれないが。

吉本隆明の代表作であるはずの『心的現象論』について、『心的現象論序説』なら出版されているが、本論である『心的現象論』そのものは、『試行』に連載されたきりで、まだ単行本になっていない、というのは、どうしようもない限界である。

レッスンだが、生徒は母親が相手をしている。それはそうと、超趣味的な私…。

吉本隆明のテキストの総体、とか、誰も興味がないでしょう。

吉本隆明も先日死んだし、「過去の人」というのは一般的な評価だろうね。原発肯定派だったというのが、3.11以降特にマイナスに働いた。不運だったね。

吉本が死んだ日、姜尚中が『朝日新聞』に追悼文を書いた。姜尚中の論旨は、吉本と丸山眞男を比べ、原発事故を引き合いに出して、吉本はかつて「教祖」だったがもはや見る影もない、丸山眞男のほうが遥かに現代的だ、というものだった。

吉本が原発も肯定するテクノロジー礼賛論者だったのは事実だが、そのことだけで思想の価値は決められないとも思うが。

だが、特に3.11以降大多数の人々にとって原発の是非が一番大事な問題になったので、「吉本隆明は過去の思想家だ」、ということになってしまった。

糸井重里だっただろうか、3.11以降、状況が全く分からなくなり、困った挙句吉本に会いに行った人がいたが、そういう人は当然だが誰もいなくなった。

困って吉本に会いに行っても、原発に賛成する意見を聞かされるだけなのは、最初から分かっていたことだと思うが。

どうしてそういうことになったのかを考えてみると、吉本は80年代に資本主義の状況が決定的に変わった、と看做したが、その後バブル経済は崩壊したし、それだけではないいろいろな要素があり、最後には原発事故が追い討ちをかけ止めを指した、という感じであろう。

ただ80年代の昔から吉本は無理をしていたと思う。彼は日本近代文学が好きだったと思うが、80年代に最も評価していた表現者はお笑い芸人としての「ビートたけし」である。そういうふうに、「現在」に合わせようと一所懸命になっていたのである。

80年代とその後を比べれば、一言でいえば、みんな「真面目」になったということであろう。ビートたけしの話芸を分析するよりは、哲学者のテキストを読解したほうがいい、ということになったし、文化だけではなく政治などもそうである。その後忘れられたかもしれないが、80年代当時よく読まれていたのは、村上春樹村上龍を除けば、高橋源一郎島田雅彦よしもとばなななどであった。そしてそういう文学に限らず、サブカルが大いに評価された時代だったはずである。そして政治的にも、吉本は、社会がどんどん豊かになれば、運動、闘争は消滅すると看做していたが、そういう単純な話でもなかった。

吉本隆明の考え方で特徴的なのは、エコロジーやそれに類するもの、近代批判の契機がないことである。彼の出発点は、戦後民主主義は欺瞞だから否定する、ということだったから、奇妙なようだが、彼は同時代の誰と比べても近代主義的であり、しかも、そのことに生涯を通じて少しも疑問を持たなかったのである。近代への疑問がないから、社会が豊かになりさえすれば運動もなくなる、表現も決定的に変容する、と看做した、ということである。

吉本隆明についての大量の意見があるが、うまく形にならない。それは吉本において重要なのはナショナリズム論なのではないか、というものである。

吉本は若い頃、俗謡、民謡、歌謡曲の歌詞などを分析してナショナリズムを論じている。基本的に近代(主義)的であった彼の、近代に少し抵抗する、違和感がある契機がそういうナショナリズム、「大衆の原像」であり、理論的には柳田國男民俗学の重視に繋がったのである。

吉本は80年代にマス・イメージ、サブカルチャーに行くまでに、元々俗謡などに注目する資質があったということだし、68年の『情況』でもテレビを分析しているから、最初から大衆文化が大好きだったのだ。

『情況』では、大橋巨泉など当時のテレビ司会者をあれこれ比較し分析、考察しているが、そこでの吉本の筆致は辛口であり、批判的、否定的である。

吉本の若い頃のナショナリズム論、俗謡の分析が重要だというのは、その後の日本社会の変化につれて、彼が想定していた「大衆」が消え去ったのではないか、と思うからである。沈黙する不気味な大衆は「マス・イメージ」になり、軽い存在になった。それにつれて吉本自身も変わったということである。

良くも悪くも「大衆の原像を自己思想に繰り込むことが知識人の課題だ」という吉本の考え方は不変だった、ということであろう。

大衆存在を重視しそこに定位する吉本は、哲学、文学、政治、経済学とかいうよりも、むしろ社会学的(という言い方が妥当なのかどうかは分からないが)だったのではないか、ということで、そうすると、社会が変わり、大衆のあり方が変われば、必然的に吉本自身の思想も変わることになる。

そういう私の視点が妥当かどうかはともかく、吉本が「転向」したし、そのことを恥じるどころかむしろ必然だし正しいと思っていた、というのは、歴史的で文献的な事実であり、そしてそのことは、彼の「大衆」についての考え方に根拠がある。

吉本隆明の考え方を整理すると、社会が変わり、大衆、「大衆の原像」が変わったのなら、それを「自己思想に繰り込む」ことを課題とする知識人である自分も変わるのが必然だし当然だ、というものである。ここで注意したほうがいいのは、「大衆」は、必ずしも『資本論』などマルクス主義がいうプロレタリアート、賃労働者と同一ではないし、知識人と大衆との関係も、サルトル的な「同伴」というよりも、もう少し根が深いものだということである。もし大衆が堕落したら(そういえるかどうかは分からないが)、知識人である自分も堕落すべきだし、倫理性、政治性、批判性を喪うとしたら、自分自身もそうなるべきだ、というようなことである。

吉本隆明は生涯にわたって「大衆」と言い続け、「プロレタリアート」、「労働者」などに定位しなかった、ということが重要である。80年代に『アンアン』のモデルになったときの埴谷雄高との論争で、埴谷雄高がついつい「女子賃労働者」などと言ってしまうのに対し、吉本は、貴方は古い、最近は"OL"という表現を使うのを知らないのか、と揶揄している。

私自身は吉本隆明を検討すること無意味だとは思わないし、時代が変わったからという理由だけで合理的な根拠もなく吉本を否定できるのか、と思うが、その点は考え方は様々であろう。

吉本隆明の基本的なロジックを『心的現象論序説』にみることができるが、それは、生命がただ生きているというだけで、無生物、無機物、物質からの「原生的疎外」だから、死んで無機物に復帰することこそがその疎外の打ち消しであり解消である、というものだ。だから、同様に、大衆存在=自然に対して「知」は疎外だから、その「知」を否定して「非知」に到達することが思想の完成だ、という考え方になる。

そういう理屈への論評は差し控えるが、それは「死の本能」の言い換えであり、『心的現象論序説』は意外なほどにフロイト原理主義なのである。