「大衆の原像を自己思想に繰り込む」ということ

@sunamajiri @nakagawasun 私は吉本隆明の考え方は面白いと思いますが、一般的な(或いは、普通の)マルクス主義フロイト主義とは違う、良くも悪くも「独自」の思想だと思いますよ。「大衆」、「原生的疎外」などについて、多くの人々は吉本のようには考えないでしょう。

さて、このことについて、少し整理すると、「プロレタリアート」、特に工場プロレタリアート、賃労働者に定位するマルクス主義マルクスレーニン主義が「大衆」を語らない、というわけではない。だが、マルクス主義マルクスレーニン主義の文脈で問題になる「大衆」とは、組織化の対象であり、そこにおいては、レーニンであれレーニンを批判するローザ・ルクセンブルグであれ、或いは、他の誰であれ、「党」の知識人や活動家連中と、それ以外の人々、「大衆」との関係が重要になる。

レーニン主義は、一般に、中央集権的だとか、「イデオロギーの外部注入」だとかいわれる。確かにそういう側面はあっただろうが、レーニン主義的な組織、「党」においてであれ、他のいかなる政治的、社会的な組織、団体であれ、最低限「コミュニケーション」が問題になる。昨日Ustreamでも話したが、もし「党」と大衆、知識人・活動家と大衆の関係が一方的な上意下達の関係、指示・命令・教育などの関係でないならば、そこには何か「熟議」のようなものがなければならない。

それはそうと、吉本隆明に戻れば、吉本の思想において知識人(彼がいうのは吉本自身のことである)と大衆の関係というのは、上述のようなコミュニケーション的関係、或いは、理性的な対話ができる関係ではなく、もう少し感情的、情緒的にどろどろとした関係であり、俗謡などで表現される大衆のナショナリズムを知識人(=吉本隆明)の側が理解し汲み取るという間柄になる。「大衆の原像を自己思想に繰り込む」ということの内実はそういうことであり、要するに、大衆のナショナリズムなど自然な感情、情緒を知識人が理解、肯定、共感、摂取することなのである。