status ideae

現代の我々と17世紀のデカルトスピノザの考え方が大きく異なるのは、そういうことだけではない。私は先程、「私が今見ているこの机」の「観念(idea)」を例に挙げ、17世紀の思想家において問題だったのは「一般概念」ではない、といったが、必ずしもそうではないのであり、そうすると、一般者/個別者という枠組みそのものが17世紀においてはそもそもなかったか、或いは少なくとも現代の我々とは異なっていた可能性があることになる。

デカルトスピノザを読んでいて当惑するのは、例えば、「ペテロ」の観念、私が実際に知っている個人、個体である「ペテロ」という人間の観念と並べて、「神の観念」、「円の観念」(勿論これは、数学的な対象の観念である)が語られることである。我々がごく常識的に考えると、「ペテロ」と「神」、「円」とでは、対象性(Objektivitat)、存在論的なステータス(der ontologisch Status)が異なる、ということにならないだろうか。「ペテロの観念」が表現するのは、個体、個別者である限りのペテロの本質だが、「神の観念」、「円の観念」の場合はそうではない。

そういうことがはっきり区別されて考えられるようになったのは、恐らく、フッサール以降のことではないだろうか。彼の現象学では、知覚対象と想像対象は異なり、また、言語や数式で表現されたり、或いは幾何学的なものであるような「理念的な対象」の対象性はまた違う、ということが明示されていた。ただ、「神」をどう位置づければいいのかは、よく分からないが。