realitas objectiva ideae

"realitas objectiva ideae" (Descartes)のことを考えていた。大本薫さん(sunamajiriさん)が、ずっと長いこと國分功一郎さんの『スピノザの方法』(みすず書房)を読み続け、そこで著者の國分さんが言及しておられたスピノザの「観念理論」のことを気にされていたからである。

大本さんと『スピノザの方法』についてTwitterで話した数ヶ月前は、私は、それは17世紀(のエピステーメー)に特有の考え方だ、とだけいって終わりにしていたのだが、どうもそれだけでは済まないと感じるようになってきた。"res"(物)と"idea"(観念)の関係を考え直したほうがいい、と思ったのである。

アリストテレス以来の伝統的な真理論は、「言葉と実在の一致」であり、それは20世紀のタルスキにまで受け継がれている。私がいうことがアリストテレスにおいてまでも正しいかどうかは今すぐにはいえないが、例えば「ここに机がある」、「机は黒い」などというとすれば、その言明は、実際に机があり、そして黒い場合に真である。だが、真理、真偽についての考え方、言葉と物の関係についての考え方はそれひとつがあるというわけではない。廣松渉(『新哲学入門』)、ドゥルーズ(『意味の論理学』)は、真理論や言語論のタイプが伝統的には3つであることを整理しているが、それを思い出すと、真理には、一致説(または対応説)、明澄説、整合説があるとされ、或いは、"disiganation", "expression", "signification"があるとされる。

デカルトの立場、彼の「観念理論」は、「明澄説」、"expression"に分類されるが、そうやって相対化し分類すれば事足りるわけではない。"res", "realitas", "idea"についてのデカルト独特の、或いは17世紀独特の考え方を洞察すべきである。

國分さんが強調していたのは、これはデカルトについてではなくスピノザについてだったと思うが、「観念(idea)」が「指示対象」との関連を離れ、自立する契機の重要性についてだったが、それもまた、大本さんと会話したときの私は、17世紀の特殊的な偏見であるといって片付けてしまった。だが、そうではないのだ。"realitas"についての考え方、"res", "idea"についての考え方が、我々とは完全に異なるのである。

シンプルな例として、先程と同じような、私が目の前の机を眺めている、というケースを想定する。17世紀の「観念理論」は、「ここに机がある」という言葉による命題を立て、それと外的実在、「物」を比較して一致していれば真である、というような考え方をしない。そのような発想は、國分さんのような言い方をするならば、「指示対象」を真偽の基準、標識にするような考え方である。だが、デカルトスピノザにおいてはそうではないのである。

むしろ、"idea"(観念)そのものの"realitas"(実在性)こそが重要なのである。それは(17世紀の思想家はこういう表現を用いていないが)内在的な論理なのだ。私が今見ている「机」の観念が明瞭になればなるほど、"realitas"はより多くなるし、はっきりしてくる、ということである。そこには、"idea"から"res"への通路があり、"idea"そのものの"realitas", "realitas objective ideae"を重視する契機がある。

そこでさらに重要なのは、「一般概念」が問題でもない、ということである。言葉、言語によって切り分けられる「机」なら「机」という一般者のカテゴリー、アリストテレスの用語でいえば「形相」が問題なのでもない。私が机を眺めて机の観念を形成するというとき、問題なのは、私が見ている「この机」、個別者としての机なのである。"idea"から"res"への通路があり、"realitas objectiva ideae"というかたちで"realitas"を考えることができる、という17世紀、デカルトスピノザ、特にスピノザは、"idea"を個別者の相においてまずは考える、という特殊性があるのである。

"idea"そのものに"realitas"がある、リアルなものだということは、例えば、私がこの机を知覚している、色、形、大きさ、手触りなどなどの具体的な質を伴ったものとしてある、ということであり、『物質と記憶』のベルクソンにとって"image"が実在そのものだったというのと同じ意味で、17世紀の哲学者達にとっては、"idea"そのものが実在、"realitas"だったのである。2012年の我々は、そういう考え方を「観念論」と呼ぶのだろうか。確かに、「観念論」とは、"idealism"であり、"idea"を中心に"realitas"(実在)を考える物の見方だから、17世紀の思想、「観念理論」は、正しく、「観念論」と呼ばれるのかもしれない。だが、重要なのは、それが、アリストテレスからタルスキに至る伝統的な真理概念(言葉と物の一致、対応)でも、唯物論的な模写とか反映とかでもないような真理概念、言葉(或いは、17世紀のデカルトスピノザの表現でいえば、"idea")と物、"res"との関係についての独特な考え方がそこにある、ということである。