物証がない。

物証がない。→「木嶋佳苗被告とその裁判については、死刑判決に反対する、という観点からのみ私は関心を持つ。木嶋被告の人格問題に煽情される人は、生き方をどこかで根本的に間違ってきたのだと思う。(suzuken2002)」

全部状況証拠だけである。

疑わしくても、証拠もないのに死刑にしていいのか。勿論、死刑そのものの是非は別問題である。

死刑廃止論には、国家、法、生命についての洞察が必要だろうが、「物証もないのに死刑にしてはならない」というごく単純な理屈だったらどうだろうか。

戦争や死刑などで、「殺すな」、「殺してはならない」というだけのことにさえ、生命についての一定の思想なり洞察が必要である。

だが、確実な証拠もなく有罪にして裁くべきではないし、まして、取り返しのつかない死刑という極刑に処すべきではない、「疑わしきは罰せず」、とかは、近代の常識である。

彼女が疑わしい、状況や心証からすれば「真っ黒」だとか、道徳的にいかがわしい人物だとかいうのは関係がないし、それに高等裁判所以降はともかく一審は裁判員裁判だったから、くじで選ばれた普通の市民連中が彼女に死刑を言い渡したのである。このことはちょっと深刻だ。

抽籤で選ばれて裁判員になった市民が良心、倫理に基づいて死刑を拒否するとは考えにくいし、多くは自分が「黒」だと思ったら死刑という判断を下してしまうであろう。そして死刑制度に反対の市民の多くは、もしくじで当たっても、裁判員を辞退するのではないだろうか。わざわざ裁判員になって、他の市民と争うことを選ぶ人々がそう多いとは思われない。

裁判員制度にも賛否両論があるだろうが、選ばれる市民は司法の素人だから、くじに当たってからどれほど頑張ってみたとしても、例えば、原理・原則的に死刑判決を出すのを拒否し続ける、とかは恐らくできないだろう。そうすると、結果として、抽籤で選出される(つまり、偶然で選ばれる、任意で匿名の「誰か」でいいような)普通の市民が死刑、殺人に加担してしまうことになるだろう。

だから、裁判員制度などやめたほうがいい、ということになるが、素人の市民(裁判員)ではなくプロの裁判官ならどんどん死刑判決を言い渡してもいいという話ではないから、こういう言い方はしたくないが、死刑制度を巡る「国民的な議論」が必要だろう。

国家と「死」の関係にもいろいろとあるが、近代以降中心になるのは、恐らく、非合理的な感情の爆発による殺人などではなく、ごく理性的な判断において誰かに死を言い渡す、というような形式であろう。そういう観点から、司法、戦争などなどを見直すべきだと思う。

裁判員を巡る状況で厭になるのは、裁判員を務めた人が判決の後テレビに出て、「死刑判決を出すのは葛藤もあったし苦労もあったが、頑張って判断した」というような意味のことを堂々ということだが、勿論、彼の顔も名前も公衆には匿されている。その人の誠実は疑えないだろうが、その人には自分がやったことの意味が本当によく分かっているのだろうか。そういう意味で、見ていて非常に不愉快である。