21世紀のレーニン主義者諸氏への論評

21世紀のレーニン主義者諸氏への論評ということで私が念頭に置いているのは、別に白井聡さんではない。mixiなどで知っている人々にレーニン主義を支持する人々がいるから、彼らのことである。

私の考え方を一言でいえば、「党」建設、蜂起(暴力革命)などできるものならやってみろ、ということである。ちなみに、私自身は「できない」、という判断だ。

さて、そのことについて、歴史の進行を妨げる反動だという批評があっても、致し方がないと思うが、もし未来を切り開くと自称する人々がいるなら、この程度の意地悪や妨害なら当然、乗り越えることができるはずである。

ちなみに補足しておけば、私が今言及したmixiの人々というのは、別に白井さんのような「思想的」なレーニン主義者ではなく、端的に政治革命、それも直接行動(蜂起)による革命を焦っている、という人々である。彼らは端的に暴力革命を肯定するし志向するが、そのことに私自身は深く懐疑的だ、ということである。

「現実を見ろ」、とかいう陳腐なことはいいたくないが、2012年の日本社会の何処に「蜂起」できる要素などあるのだろうか。自分のプランの可能性、現実性をまともに検討することすらしていないのだろうか。

さしあたって可能なことは、脱原発を除けば、憲法9条を擁護することくらいしかない。だから、21世紀の現在、かつて赤軍派だった塩見孝也重信房子などが共に日本国憲法の擁護を主張し目指しているのは、実に当然だし、現実的な判断である。

ただ、細かいことをいえば、現在獄中の重信房子はともかく、塩見孝也は「9条改憲阻止の会」で活動しているが、そこにいるのはかつてのラディカルな左翼である。彼らは、9条「護憲」とは少し異なる立場として9条「改憲阻止」を主張している。「護憲」と「改憲阻止」が事実上どう違うのか、ということは問題だが、それはともかく、彼らは彼らで独自の立場を主張しているのだ、ということである。

私が好まないのは「何でもかんでも政治の問題にしてしまう」、ということで、エルンスト・マッハの現象主義の是非は認識論の問題なのにレーニンはそこに進歩的(革命的)/反動的の線を引こうとするし、「空間」の問題は社会科学や政治でだけは解けるはずがないのにデヴィッド・ハーヴェイは(ライプニッツホワイトヘッドまで援用して)空間を論じようとする。そういうことが疑問だということだ。

レーニンの同志連中がマッハ主義に中途半端にかぶれて、相対主義的、日和見主義的になっていた、とかいうことは、マッハそのものとは無関係なはずだ。認識論の問題は認識論の問題として厳密に扱う必要があるのは、実に当たり前なことだし、「現象」しか知ることができない、というような立場がありとあらゆる意味で疑わしくても、だからといって、すぐに「反映論」が正しくなるとか、「哲学のレーニン的段階」(戸坂潤)などと褒めそやされるべき立派なものになるはずがないであろう。

戸坂潤、武谷三男レーニン主義レーニン支持については、「軽率である」、と私は昔から思っている。彼らの元々の考え方(科学哲学)からは、そういうものは出てこないはずだ。