valeur

一応、念のため。→柄谷行人の(平野謙を経由した)小林秀雄=人民戦線説には具体的な根拠も実証もなく、ただの推測なのですよ。初期の小林秀雄が『資本論』を徹底的に読解していた、という柄谷の説は既に実証的に否定されており、三木清経由のマルクス理解だったことが現在では明らかにされています。すが秀実吉本隆明の時代』を参照してください。

そもそも小林秀雄にはドイツ語が読めず、ランボーを専攻し翻訳していてもフランス語すらあやふやだったのだから、『資本論』をまともに読めたはずがないし、『様々なる意匠』の何処かにマルクス理解があるなどと錯覚するほうがどうかしているであろう。ただ、当時はヴァレリーもそうだが、『資本論』の価値形態論を漠然と言語の問題と重ね合わせる読み方が知識人、文学者の間で存在していたが、そのヴァレリーが別に左翼でもマルクス主義的でもなく、むしろ保守的、右翼的だったことも考慮すべきである。

当時のヴァレリーのメモに、「『資本論』をまともに理解しているのはフランス中で俺だけだ」と自慢しているものがあるが、彼は価値形態論を詩の言葉の問題として読んだだけであった。

そういうヴァレリーの読み方には、商品も言葉も"valeur"(価値)が問題だ、というところに根拠があるが、勿論商品の場合と言葉の場合は違い、言語学においては"valeur"は「意味価」と訳される場合もある。言葉、言語、単語などにおいて問題なのが「意味」だということは明らかだが、そこをごっちゃにしたところにヴァレリー小林秀雄の解釈が出てくる余地があるし、戦後の『テル・ケル』のフィリップ・ソレルスの「理論」などもそういう混同に基づく。

それに、現在の世界の「英語帝国主義」を、価値形態論の「一般的等価形態」そのものだなどという守中高明の意見は、私からみれば、「何を今更時代遅れな主張をしているのか」、というくらいである。