市田良彦、ネグリ、ハーヴェイ

市田良彦『革命論:マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)、読了。読後の感想は、「もっと経験的に考えるべきだ」、という一点に尽きる。

実際「革命」であれ革命以外の政治であれ、具体的な生きた諸個人とその利害に関わるのだから、ネグリがどうのという抽象的な理屈だけで済むはずがないのは当たり前なのではないだろうか。

アントニオ・ネグリ『戦略の工場:レーニンを超えるレーニン』(中村勝己・遠藤孝・千葉伸明訳、作品社)、p.108 - "rivoluzione permanente"を「永続革命」ではなく「継続革命」と訳すそうだが、訳語をちょっと変えてみるというような小手先のごまかしでどうにかなるとは思われない。

読了。感想を簡単にいえば、以下のふたつについてのレーニン及びネグリの主張が疑わしいということである。ひとつめは、「技術としての蜂起」ということで、蜂起が技術であろうとなかろうと、実際問題として成功する場合もあれば失敗する場合もあり、そして失敗すれば死を帰結する場合もあるのではないか、ということである。もうひとつは、「同一賃金」、現存社会主義的な「平等」への批判であり、ネグリが何をどういおうとやはり経済的な平等は必要だし大事なのではないだろうか、と思う。

白井聡さん、市田良彦さんが解説を書いていたのには驚いたが、やはりネグリは現代の左翼の主要な参照なのだろう。

ただ、前から指摘しているが、ネグリの物質、自然概念は非常に生気論的であり、レーニンヘーゲル『大論理学』読解の評価もそういうところからきている。私自身はそういう考え方をしない、ということである。

デヴィッド・ハーヴェイネオリベラリズムとは何か』(本橋哲也訳、青土社)の基本的な発想は、「地理的不均等発展の理論」だということで、確かに現在の世界の「発展」は不均等で不平等だと思うから、そういう視点は大事だと思うが、彼が展開する「空間」についての原理的な考察は疑わしい。我々ならば戸坂潤の『空間論』を知っているわけだが、「空間」といっても、哲学、科学などいろいろな規定があるだろう、と思う。

ハーヴェイはライプニッツホワイトヘッドをあれこれ論評しているが、それが単に社会科学の範囲では収まらないもっと原理的な問題なのではないか、というのは当たり前のことだと思う。

例えば、ニュートンの「絶対空間」、それを批判するライプニッツ相対主義的、関係主義的な空間概念、ホワイトヘッドの自然哲学の「延長抽象化の方法」などは勿論、政治の問題などであるはずがない。

そして、空間と時間を感性のアプリオリな直観形式だと看做すカントの『純粋理性批判』の検討も必要になるはずである。

ニュートン物理学、そのニュートンに範を取ったカントの空間についての考え方が、20世紀以降物理学の知が大きく変容した我々にとっては時代遅れなのではないのか(その点でむしろライプニッツのほうが現代的なのではないか)、というようなことは誰でも考えるだろうし、個々の「出来事(event)」から空間を構成していこうというホワイトヘッドの「延長抽象化の方法」がどうなのかということにもなる。念の為にいえば、ホワイトヘッドはカントと違って、空間をアプリオリなもの、先天的なもの、主観的なもの、「形式」とは看做さなかったわけである。

ハーヴェイがライプニッツホワイトヘッドに言及するときに、一定の哲学的な手続きが必要になる、というのは、当然のことである。

戸坂潤が『空間論』を書いたのは、左翼・唯物論者になる前のことであり、むしろ、「空間」概念の理論的な検討(ここで理論的というのは、哲学及び自然科学という意味である)こそが彼を唯物論に導いた。そういう戸坂潤の考え方は、「構想力」などを重視する三木清とは全く異なる客観主義的なものである。

ただ、そういう戸坂潤については、彼の『日本イデオロギー論』の批判がどれだけ有効なものだったのか、という問題がある。哲学(例えば、西田幾多郎和辻哲郎)であれ、文学(例えば、小林秀雄保田與重郎)であれ、「文献学主義」だ、だから科学的でも批判的でもない、という主張が正しくても、情緒的に戦争に向かう人々を制止することはできない。

戸坂潤が左翼哲学者になってからの社会哲学、社会評論というものは、そもそも「常識」概念を理論的に根拠づけてみる、というようなものだが、そういう批判が読者大衆に全くアッピールしなかったのも、致し方がなかったと思う。

大体、「常識」を理論で根拠づけるというような発想そのものが、マルクス主義でも何でもないし、政治的でも批判的でもないのではないか、というような感想は誰でも持つと思う。

小林秀雄が当時、三木清に、「お前達哲学者連中は読者のことを全く考えていない」と文句をいったそうだが、その批判の対象には戸坂潤も含まれるはずである。なぜならば、戸坂潤の「常識」概念の理論的分析や「ニッポン・イデオロギー」批判がどれほど正しくても、誰もまともに読めないし、故にアッピールせず、政治的効果も皆無だからである。

真偽のほどは分からないが、戦時中、小林秀雄は、左翼に限らない広汎な批判的な抵抗の言説を組織したかったそうだが、残念なことに左翼の哲学者も文学者(中野重治など)もその意図を全く理解せず、戸坂潤は『日本イデオロギー論』で小林秀雄を全否定したので、小林は諦めてしまったそうである。

小林秀雄保田與重郎の文章に論理性が全くなかったのは事実だろうが、マルクス風の言い方をすれば、当時、「大衆の心を情熱的に掴んでいた」のはそういう文学・文芸だったわけで、それをただ単に非論理的である、感情的であるというような理屈だけで否定しても、全く効果はないのだ、ということであろう。戸坂潤の批判の盲点はそこである。

→(柄谷行人の(平野謙を経由した)小林秀雄=人民戦線説には具体的な根拠も実証もなく、ただの推測なのですよ。初期の小林秀雄が『資本論』を徹底的に読解していた、という柄谷の説は既に実証的に否定されており、三木清経由のマルクス理解だったことが現在では明らかにされています。すが秀実吉本隆明の時代』を参照してください。)