mauvaise foi

"Well-Tempered Clavier"、何度も書いているが、冒頭の"Prelude and Fugue No.1 in C major", "Prelude and Fugue No.2 in C minor"が付きで、繰り返し繰り返し聴いている。リヒテル、グールドで持っているが、もっと無限に聴きたいところである。

実際、私には音楽以外の趣味はない。

「おれたちは自分の生存を正当化しようとして失敗した。いまおれたちは死んで行く、正当化されぬ死人になるわけさ。」−ソルビエ『墓場なき死者』(サルトル戯曲bot @SartreDrama_bot

哲学者としての彼はともかく、「文学者サルトル」がどうなのかというのは依然問題だ。その昔、フレデリック・ジェイムソンの『サルトル:回帰する唯物論』を読んだが、哲学というよりも文学がメインテーマだったし、サルトルの哲学がそれほど読まれなくなっても『嘔吐』は読まれ続ける気がする。

サルトルの哲学的著述でも、『存在と無』を除けば『聖ジュネ』が飛び抜けて素晴らしい。これはジュネを精神的に追い詰めた論考でもあるし、後年のデリダの『弔鐘』などは、サルトルのジュネ論への暗黙の批判である可能性が高い。

それにサルトルは死ぬまで文芸評論を書き続けたわけで、彼の絶筆は未刊のフローベール論『家の馬鹿息子』である。

ジェイムソンは数年前ヘーゲル論が出たから図書館で読んだが、それなりに面白かったような気がする。

サルトルの『聖ジュネ』の分析は、ジュネを自殺未遂に追い込んでしまった。サルトルは、ジュネの同性愛、盗み、「悪」などを徹底的に分析したのだが、そのキーワードは「自己欺瞞」、mauvaise foiである。mauvaise foiは辞書には「不誠実、悪意」と出ているが、直訳すれば「悪い信仰」であり、意図的に自分や他人を騙すというよりも、無意識的にそうなってしまう、というようなものだ。

サルトルによる「実存的精神分析」というのは、分析対象、この場合はジュネのmauvaise foiを徹底的に暴露する、というものだから、ジュネが参ってしまったのも、やむを得ないことである。ちなみに、サルトルの「精神分析」は、無意識の存在を認めないという、極めて特殊なものである。

「無意識」を認めないサルトルにとっては、人間のありとあらゆるmauvaise foiは自覚、意識化できるし、そうすべきだ、というような発想になる。だが、そうなのだろうか。