私はこれから先の永遠を駄洒落で支えていくようにとの刑罰を受けており、……
"Well-Tempered Clavier"、私が特に好きなのは、"Prelude and Fugue No.2 in C minor"である。(performed by Sviatoslav Richiter"
空腹になったからお好み焼きを食べたが、今日もまた病院に行きそびれてしまった、というのは、一応、インターネットで千葉県内の病院を検索してはみたが、そこで面倒臭くなってしまったからである。
「攝津くんはドゥルーズなどを読みながら、変にサブカルで、モダニズムが欠落している」、というのが、美術家の北川裕二さんの御意見だったが、確かにそうなのかもしれない。ドゥルーズの映画論を暇潰しに読んでも、自分が観るのはゴダールなどではなく『相棒』だったりするからだ。確かに分裂である。
ただ、モダニズムが欠けている、近代が欠けている、などと批判されても──そういう批判は、要するにお前は「ポストモダン」じゃないか、といいたいのだろうが──、今更セザンヌなどの近代絵画を一から勉強し鑑賞しよう、という気持ちにならないというのも、致し方がないことである。
「私はこれから先の永遠を駄洒落で支えていくようにとの刑罰を受けており、そのためここに、元々何一つ希望を残すというのでもない雑文を一筆、非常に品よく、酷く緊張することもなく書いたのです。(ヤーコブ・ブルクハルト宛の手紙1889年1月6日)」
「私はこれから先の永遠を駄洒落で支えていくようにとの刑罰を受けており」、とかいうニーチェの御意見は、約100年後の、島田雅彦の小説を先取りしているように思える。
ニーチェにとっても、認識=「制作」だったのだから、サルトルの実存主義=人間主義と同じではないか、と思われるかもしれないが、ニーチェの場合は「人間」そのものが疑問視され、問題にされてしまう。確かに、ニーチェが書き遺した文章の何処を探しても、「超人」についての具体的な規定はないが。