imagination = Einbildungskraftを巡って

Car avec Dieu, tout est permis. →「というのも、神とともに、全ては許されるからである。」

"moralement"に(道徳的に)許されるというだけではなく、"esthetiquement"に(美的)にも許される。暴力及び陋劣さ(infamies)が常に聖なる正当化(une sainte justification)を見出すからである。

"les Figures divines sont animees d'un libre travail createur, d'une fantasie qui se permet toute chose." - 「神の(神とか神的なものを描いた)〈フィギュール〉は、自由な創造の活動、及び、ありとあらゆる事柄を許す幻想(une fantasie)によって、生気づけられている。」

神、宗教的信仰によって、暴力とか陋劣さ(或いは、恥辱、屈辱、破廉恥などといった意味がある)が聖なる正当化、つまり、「正しいことをしているのだ」、「神のためにやっている」、という正当化を見出す、全てが許される、というドゥルーズの物の見方は非常に皮肉である。

別にドゥルーズは道徳の話、正義の話がしたいわけではなく、彼が興味を持つのは絵画の分析、宗教画などの分析である。彼の表現では"Figure"だが、神、天使、イエス・キリストなどを描いた絵画が、いろいろなものによって生気づけられている、活気づけられているのだ、というようなことにドゥルーズは興味がある。

ドゥルーズは、"figure"と"figuration"、"affect"と"affection"、"percept"と"perception"、"concept"と"conception"が違う、というようなことを強調するが、それはフランス語を母語としない我々には少し分かりにくい言い方である。

"-tion"が付くか付かないかの違いは、簡単にいえば、人間主体、個体や人格に帰属するかどうかであり、"figuration", "affection", "perception", "conception"は人間主体に帰属するが、"figure", "affect", "percept", "concept"はそれ自体であるもの、ドゥルーズの表現では、「前個体的で非人称的な」ものである。

美術などの視覚芸術を考察するうえで、"figure"は基本的な語彙だが、どういう日本語がぴったりするのかは悩ましいところである。「フィギュール」、「フィギール」、形象、形態などが考えられるが、邦訳『感覚の論理』では、「人形」などとなっていて驚いた。これでは分かるものも分かるはずがない。

『シネマ』でいえば、"imagination"と"image"の区別、というようなことになる。"image"も、「イマージュ」、「イメージ」だが、戦前は「形像」などと分かりにくい訳語が当てられていた(高橋里美訳のベルクソン物質と記憶岩波文庫)。

高橋里美は確か西田幾多郎を批判した哲学者だが、高橋が訳した『物質と記憶』にはその西田の序文、推薦文が付いている。批判する、されるという関係を超えて交流があったのだ、ということである。

"imagination"も、ドイツ語では"Einbildungskraft"だが、英米・フランス系では「想像力」、カントなどドイツ系では「構想力」と訳されており、非常に分かりにくい。「想像力」と「構想力」が実は同じ単語なのだということをすぐに理解できる読者がいるのだろうか。

『技術思想の探究』の三枝博音がいうように、"Einbildungskraft"は、元々、「像」、つまり、"image", "Bild"を描く力、というふうに理解すべきである。そして、それを巡って、カント、ベルクソンサルトルといった思想史の問題が生じる。

カントは後回しにして、先に『物質と記憶』のベルクソン、『想像力』、『想像力の問題』のサルトルから説明すれば、ベルクソンにとって"image"とは実在そのものである。彼にとって、ものは見える(或いは、他の手段で感覚される)ままにあるものであり、そういう自分の立場をいうために"image"に定位する。彼の言い方では、"image"は表象(representation)よりは多く、物(chose)よりは少ないものである。

イデーン』のフッサール現象学に依拠するサルトルは、"image"についてのそういうベルクソンの考え方を「魔術」だといって全面的に斥ける。サルトルにとって、"imagination"とは不在の対象を再生する能力である。例えば私は、自宅にいながらにして不在のピエールを想像することができる。そういうサルトルの物の見方は、後年の『存在と無』においては、「無化」として全面的に展開される。

カントの『純粋理性批判』における"Einbildungskraft"の捉え方は若干複雑で、ベルクソン的な見方とサルトル的な見方の両方を含む。カントの意見では"Einbildungskraft"は「再生的」、再生産的であり、そういうものとして、知覚の一部である。例えば、私がこの机を見ているとすると、見えない部分もあるし、さらに、注意を向けることができる部分とできない部分がある。だから、実際に見ることができない部分については"Einbildungskraft"によって再生・再生産され補われているし、そうでなければ知覚も成り立たない、というのがカントの考え方である。

さて、問題は、"Einbildungskraft"=像(Bild, image)を描く力、というような考え方を徹底させると、認識とは人間による制作である、全部人間が作るものだ、というようなニーチェの認識論、真理論になる、ということである。

カントであろうとどんな哲学・思想であろうと、ただの想像でなく知覚も含めて、「全部人間が作るものだ」、というような乱暴で単純化した物の見方にはならない。そういう意味でニーチェはカントを誤読したといえるだろうが、そういうことだけではなく、そういうニーチェの極端な思想が、プラトン以来の西洋の形而上学の一つの必然的な帰結、結論である可能性がある、ということが重要である。

実際、認識=「制作」というのは我々の通念でもあり、否定したり覆すのは容易ではない。感覚される物も含めて、「全部自分が作っているのだ」、などと思う人は少ないだろうが、感覚・知覚には主観的要素があるということくらいは誰でも考慮するはずである。そういう意味で、客観的な事物そのものをそのまま「反映」、模写しているのだというふうには、なかなか考えにくい、ということである。

そういうことには三木清から廣松渉に至る日本の左翼哲学者も深く悩んでいた。彼らが唯物論者になっても、どうしても、カント以降素朴な「模写説」は通用しないのではないか、と自問せざるを得なかったからである。そこから三木清廣松渉も、彼ら自身の「独創的」な哲学体系を構築してしまった。