ニーチェ、マルクス。

どうでもいい細かい細部がどうしても気になるのだが、ニーチェにおける真理と嘘について。『この人を見よ』の終わり頃に出てくる断言だけ読めば、簡単にみえる。彼は、これまでいわれてきた真理は嘘だが、彼自身がいうことは真理なのだといっている。それは素朴な主張である。しかしながら、彼のテキストを初期から晩年までみてみると、ちょっと難しくなる。

『哲学者の書』その他を読むと、ニーチェの基本的な真理論、認識論がみえてくる。真理=嘘というか、彼にとっては《仮象》のほうが根本的であり、重要である。認識とは制作、創作、生産などであるというのがニーチェの考えである。真理というよりも、一定の《信仰》というほうがいいのではないかと思うが、彼は、人間が真であるとか正しいと看做す何かを、生、生存、生活、生命などとの関連で考える。彼の考えでは、人間が生きるためには、誤謬、虚構が必要である。

そういうニーチェの意見は、カント、さらにショーペンハウアーの影響で形成されたものだが、元々のカントと比べてみれば、カント主義(『純粋理性批判』)を大きく誤解しているとしかいいようがない。それはともかく、後でマルクスについて触れるが、ニーチェマルクスフロイトはよくカントと比べられるし、その比較は正当だが、彼らの思想はカントと大きく異なっている。それは、哲学と哲学以外の何か或るものの微妙な関係である。ニーチェは勿論、マルクスフロイトさえ、ニュートンの物理学やダーウィンの生物学が経験科学であるという意味では、普通の(まともな)経験科学ではない。それは、20世紀におけるアルチューセール、ラカンらの苦闘を考慮すればよく分かるはずである。マルクス主義精神分析学を妥当に位置付けるのは非常に困難なのである。

ニーチェに戻れば、彼にとっては普通の(日常的な)認識であれ、何らかの社会的な実践(の根拠になるような認識、信念)であれ、我々自身が創るものである。通常の認識、例えば知覚を考えると、何らかの素材、一般的に感覚印象と呼ばれるもの、光や物理的音響などがなければ感覚、知覚も不可能だと思うが、その点はニーチェは論及していない。一次性質と二次性質の区別や物自体と現象の区別もない。だが、そうはいっても、感覚印象までも我々が能動的に生み出しているのだとは、どうしてもいえないし、考えられないとは思うが。

私自身は、認識であれ実践(行動)であれ、全く恣意的ではあり得ないから、どうしても一定の客観的で必然的な制約があると思うが。一般に、我々自身の身体組織が我々にとっての絶対的な制約であるというだけではなく、社会的な事柄の多くも個人の恣意で変更できない。例えば、言語体系(ラング)を個々人が勝手に変えることはできない。そして、我々にとって変更できない、或いは変えることが難しい条件は、身体や言語だけではない。

話を戻せば、《これまで真理といわれてきたものは全部ただの嘘だ》と言い立てるニーチェその人が、どうみても彼が批判する《真理への意志》、動機の疑わしい真理愛などにとり憑かれているし、少なくとも『この人を見よ』においては、自分こそ数千年来の欺瞞を暴露し、虚構を覆すのだという世界史的な誇大妄想に満ち満ちている。しつこいようだが、彼以外は全員嘘だが彼その人だけは真理だ、とかいうのが、思想家としては単純過ぎるし、どうみても疑わしいのである。真理一般を吟味して、真理などないとか、制作物、創作だというなら、《自分自身の真理》にもそういう考え方を適用すべきだが。

さて、もうひとつはマルクスについてである。柄谷行人のようにマルクスをカントと並べる考え方がある。マルクスが『資本論』の前に書いたのが、『経済学批判』、『経済学批判要綱』だからだが、その題名が『純粋理性批判』など三批判に似ているからといって、当たり前だが、直ちにカントではない。

カントにおいては、認識の限界を劃定する『批判』のほかに、積極的で体系的な《学》、学問の理念が存在していた。それは、彼以前、例えばデカルトなどによって考えられてきた学問(科学)の理念とは異なり、体系という言葉でどういう内容を理解するかはともかく、論理的であり網羅的であり総体的であるような知識が問題である。そして、そういう《学》、学問の理念はドイツ観念論、とりわけヘーゲルに継承される。

カントにおいて批判と別に《学》があることが一般にそれほど知られていないのは、『純粋理性批判』しか読まれていないし、カントの試みがそれほどうまくいっていないからである。《学》、形而上学として、『自然の形而上学』、『人倫の形而上学(道徳形而上学)』があるが、すぐに古びてしまった。

マルクスの思想は、《批判》=経済学批判なのだろうか。カントやドイツ観念論のいうような《学》なのだろうか。経験科学なのだろうか。とにもかくにも、『資本論』以後、内部であれこれ分裂しているのだとしても、《マルクス経済学》が成立しているが。それから、近代経済学などはどうなるのだろうか。

とりあえず、ここまで。