国家について、補足。

さて、先程NAMには国家論がなかったといったが、少し訂正せねばならない。実際には、NAMの時期における政治理論的テキスト(『可能なるコミュニズム』、『NAM原理』、『トランスクリティーク』)にも国家についての一定の考え方があった。要点をいえばふたつであり、ひとつは、国家権力はまず、絶対主義からみるべきであるということである。もうひとつは、《国家は何よりも他の諸国家との関係においてみなければならない》ということである。

それから、国家を、柄谷行人のいう意味で《経済的》に、即ち、《交換様式》としてみなければならない、ということもいわれていた。ということは、収奪(略取)と再分配、という交換タイプとしてみるべきだということである。そして、国家と国民(ネーション)の《結婚》以前に、資本と国家の《結婚》をみるべきだ、とも。

以上の考え方がそれほど間違っていたとは思わないが、ついでにいえば、国家は外的にいえば他の諸国家との関係において国家であろうが(《主権》とは第一義的には他者に対してのものだ)、或る一定の地域内には基本的には一つの統治権力しかないということも想定したほうがいいのではないだろうか。昔々、近代以前はどうだったのかよく分からないが、近代以降においては、或る一定の地域に複数の有力な勢力があると、内戦、内乱になってしまうようだが。それは現在も世界の多くの地域で観察されるし、昔のことを考えれば、もっといろいろな地域でいえる。例えば、共産党が最終的に権力を握るまで、中国には、多数の軍閥などが存在し、群雄割拠の状態であった。ということは、国が纏まらないし、日本からの侵略に一致団結して対応・反攻できないということである。《国共合作》は特定の個人の相当の無理、意志的な決断の結果成立したものである。また、現在も朝鮮半島が南北に分裂しているのは、東西冷戦のせいである。世界を探して、朝鮮のようになっている地域がそれほどあるであろうか。

ちょっと考えてみたが、社会について社会実在論を巡る論争があったが(デュルケムとタルドの間で)、国家についても同じ考え方ができるのではないだろうか。我々は漠然と《国家》という言葉を使うが──それが悪いとは思わないが──、実際に確かに存在しているのは、例えば、個々の警察官が所持している武器、警棒や拳銃などである。また、一定の法律もあるといえるであろう。そうすると、《国家そのもの》は何によって規定されるのであろうか。《国家を国家たらしめる特性なり規定》とはどういうものなのであろうか。

何となく支配と被支配の関係がある気がするし、フーコーのように、権力とは単に否定的なものではなく《生産的》なもの、能動的で積極的なものなのだと考えてみることにしても、その生産的な権力とかいうものが実際にやってきたのは、例えば、狂人や犯罪者の監禁、《大いなる閉じ込め》である。そうすると、権力をどう考えようと、たとえ《生産的》等々と看做そうと、我々の思惑とは無関係に、リアルな暴力の側面や苛酷な否定性といった次元を消去することはできないであろう。《統治される我々がそう望まないのに、暴力によって一定の状況、一定の生活様態を強要され強制される》というのが、国家なり政治権力の本質だからである。国家は単にレーニンのいうような《暴力装置》であるだけではなく、多数多様な仕方で《生産的》権力であろう。例えば、単に軍隊・警察であるだけではなく、教育システムとしてもあるであろう。そうすると、その教育システム、公教育制度は、国民全員に知恵や知識を授けようという善意の賜物というよりは、全ての国民を一定のタイプ、人間類型へと訓育し仕上げようという意志の表現としてみるべきなのかもしれない。《誰の》意志なのか、と性急に問わないでほしい。例えば、《それは資本家の意志であり意向だ》とだけ断言するならば、それは拙速だし一面的であろうから。ただ、結果として、被統治者に一定の方向性の生が強要され、その結果、被統治者はよき《国民》、従順で有能な《労働者》候補などとして鍛え上げられることになる。──国家とか権力のあらゆる側面、発現を考慮し吟味すべきである。