国家について

ベネディクト・アンダーソンの《想像の共同体》論が空疎だから否定してみるとかいう左翼が膨大にいるが、マルクスを読んでもそこに見出されるのは国家とは《幻想的な共同体》だという規定だけである。だから、彼らがアンダーソンに不満を持つのだとしても、マルクスに依拠することはできないだろう。

ヘーゲルの『法の哲学』には国家についてのしっかりとした考察があり、規定がある。彼を当時のプロイセン国家の弁護者であり、政治的に反動的だと決め付けるのは容易いが、さて、そういうことなのであろうか。ヘーゲルにおいては、市民社会=欲求の体系を安定化させるために、国家が要請されたが。

私はラカンに詳しくないから、私の考え方は間違っているかもしれないが、市民社会想像界に属し、国家は象徴界に属する。或いは、象徴秩序そのものである。というのは、欲求の体系とは、その欲求の対象である魅惑的で感性的なもろもろのイマージュが無数に存在している世界だということだからである。

さて、国家とか、統治、権力、支配などによって、即ち象徴秩序の導入によって、そういった不安定な想像界──ここでは欲求の体系としての市民社会──は安定するのだろうか。それは分からないが、政治的国家を否定し廃棄して市民社会だけでやれるかどうか、熟考すべきであろう。

さらに、現存の国家を政治革命、社会革命によって顛覆し、否定、廃棄し消滅させようというのなら、国家が不在になった後の空白を一体どうするつもりなのかも検討すべきだ。所謂《現存社会主義》では、それまでの国家権力に《超権力》、怪物のような国家が取って替わったのだが。

国家とは《幻想的な共同体》だというマルクスの規定では全く不十分だから、『国家と革命』におけるレーニンのように、《暴力装置》としての側面を考慮することになったが、そのレーニンさえも不十分だとして、80-90年代に国家論のルネッサンスがあった。私は詳しくないが。

当時精力的に国家論を展開していた論客が来日し、アソシエで講演したが、柄谷行人は不満を抱いたそうである(『可能なるコミュニズム』)。既にある支配構造を細かく分析するだけで代案を提示しないのは、現状を追認するのと同じだと看做したからである。だが、その彼のNAMには国家論がなかった。

NAMの理論にあったのは、協同組合の連合体が世界大になれば国家に取って代わることできるという甘い見通しであり、政治的国家に社会的国家を簡単に置き換えることができるという発想だったが、当然それは行き詰まり失敗した。

そうすると、柄谷行人は、かつて彼が批判した論客連中と同じように、自分自身で国家論を展開しなければならなかった。それが『世界史の構造』だが、その著作は、かつて彼自身が不満を抱き批判・否定した、欧米の左翼の論客の国家論と、一体何処が違うのだろうか。