池田雄一『カントの哲学 シニシズムを超えて』(河出書房新社、シリーズ:道徳の系譜)を読む:「行為への移行」

《この不可解な行動の結果、シーニュもまた致命傷をおってしまう。テュルリュールは、なぜ心底軽蔑していた自分のために盾になったのか、死ぬ直前のシーニュに尋ねるが、彼女は顔をただ痙攣させ歪めるのみであった。》(池田雄一『カントの哲学 シニシズムを超えて』河出書房新社、p.92)

《現代的な倫理の三段階。一、人生においてけっしてすてられないものがある。つまり絶対条件。二、このもののためならば、すべてをすてることができる。ただし例外は認めない。三、絶対的条件を実現するための唯一の方法は、この絶対的条件それ自身を犠牲にすることである。》(p.92)

アンティゴネーの命がけの行為が、最終的には美的に昇華され、崇高な悲劇として幕を閉じるのに対し、クローデルの戯曲においては、ヒロインの顔がただ不気味な肉の塊と化して物語は終わっている。》(p.93)

アンティゴネーの行為それ自身が、欲望のシニフィアンである「ファルス」の具現化された姿だとすれば、シーニュの顔は欲望の現実界である「ひとかけらの肉の塊」、ピクピクと震える「小さな肉体」になってはいないだろうか。》(p93)

《しかし、その欲動の領域でシーニュが行ったことはといえば、最低な男の盾となって死ぬという、何の意味もない犠牲的行為であった。このような行為は、もはや悲劇に回収されることもない。》(p.95)

精神分析理論を参照すれば、この出来事はラカン派で言われている「行為への移行」という現象だということになろう。》(p.95)

ラカンは「アクティングアウト」と「行為への移行」を厳密に区別している。精神分析の現場では、分析の過程で、クライアントが過去のトラウマを想起できない、あるいは言語化できないという時がある。》(p.95)

《その際それらのかわりに、クライアント自身が、みずからの衝動的な行為によって、トラウマとなった出来事を反復してしまう場合がある。これがアクティングアウトつまり行動化である。》(p.95)

《患者自身にもコントロール不能で、深刻な場合には自殺や他者の殺害にいたることもある。この場合、患者の行為それ自身が他者(多くの場合は分析者だが)へのメッセージとなっている。》(p.95)

精神分析においては、行為そのものがシニフィアンなのである。そして、その場合、他者がその行為(シニフィアン)を解釈することによって、事態が好転する場合もある。》(p.95)

《行為への移行はより深刻だ。そこでは、主体みずからが他者にとっての対象と同一化してしまう。そしてそのことに耐えられず、衝動的にその「現場」からみずからを排除してしまう。多くの場合、身投げという行為が採用される。》(p95)

《行為への移行は、対象と化した自己が、自己にとって本来の場である「現実界」に、再び登録されるための、決死の賭なのだ。シーニュがとった、いやな奴の盾となるために身を投げるという行為も、おそらくそのような、自己排除の身振りだと考えられる。》(p.95)

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)