生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出

私はニーチェの『この人を見よ』が子供の頃から大好きなのだが、この最後の本は、ニーチェ思想、ニーチェ主義とは関係ないと感じている。フーコーの意見では、《わたしはどうしてこれほど賢明なのか》というニーチェの傲慢のどこに狂気が忍び込んだのか穿鑿しても無意味ということだったが。https://twitter.com/femmelets/status/206719395517579265

こういう目次。序言→なぜわたしはこんなに賢明なのか→なぜわたしはこんなに利発なのか→なぜわたしはこんなによい本を書くのか→なぜわたしは一個の運命であるのか。非常に素晴らしい。副題は、《ひとはいかにして本来のおのれになるのか》。本来のおのれなどない、と茶々を入れてもしょうがない。https://twitter.com/femmelets/status/206719953225789440

例えば、こういう一文はどうか。《それとも、わたしが生きているというのは、単なる独り合点にすぎないのかもしれない?……》(p.7) https://twitter.com/femmelets/status/206720681143050244

或いは、《そのことを謎めいた形式で言い現わすなら、わたしは、わたしの父としてはすでに死んでおり、わたしの母としては生きつづけていて、年を重ねているのである。》(p.17) https://twitter.com/femmelets/status/206721125701533696

《わたしの父は、三十六歳で死んだ。きゃしゃで、やさしくて、病弱で、いわば人生の舞台をただ通り過ぎるだけの役割に定められている人だった──生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出であった。》(p.17-18) https://twitter.com/femmelets/status/206721148308819968

《三日間もひっきりなしにつづく頭痛と難儀極まる粘液の嘔吐がもたらす責苦のさなかに──わたしは、とびきりの弁証家的明晰さを所有していた。》(p.18) https://twitter.com/femmelets/status/206721525414510592

《わたしはくつろぎ、わたしの最も内部の情熱ははじめて自由に燃え立つ。わたしは、この特権にたいしてほとんど生命の一部を代償として支払ったが、それもけっして損な取り引きとは思っていない。》(p.19) https://twitter.com/femmelets/status/206722669100548096

《──わたしの場合、病気の回復とは、長い、あまりにも長い歳月の経過を意味する──しかし、残念ながら、回復とは、同時にまた一種のデカダンスの再発、悪化、周期的反復をも意味するのである。》(p.19) https://twitter.com/femmelets/status/206721905019994112

《──わたしのツァラトゥストラをいくぶんでも理解するためには、ひとはおそらくわたしのそれに似た制約をになっていなければなるまい、──すなわち片足を生の彼岸に踏み入れているという……》(p.19-20) https://twitter.com/femmelets/status/206722725396484096

《ロシア的運命主義》(p.31)、《もうなにも受けつけず、引き受けず、受け入れない、──およそもう反応をしないのである……》 https://twitter.com/femmelets/status/206723368764964864

《このけがらわしいものを踏みくだけ!》(p.194) https://twitter.com/femmelets/

ざっとみてみたが、私からみれば、『この人を見よ』は、何らかの体系ではない。https://twitter.com/femmelets/status/206726539637829633status/206725509235748864

私が昔から好きなのは、《生そのものというよりは、むしろ生への温和な思い出》という表現だが、ニーチェの父親が死亡し、ニーチェ自身の生が下降した三十六歳を超えて、私は生き延びてしまった​。私は現在、三十七歳である。

この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

さて、大江健三郎の意見では、このようなニーチェは《単純な人》だとかいうことであったが、さて、どうであろうか。《──わたしの語るところのものは真理なのだ。──しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。──一切の価値の価値転換。これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である。》(p.180)

ニーチェが単純かどうかはともかく、純粋に形式的、論理的にみれば彼の言明にパラドックスがあることを看取するのは容易であろう。真理は嘘だといいながら、自分が語ることは真理だと主張しているのだから。しかしながら、彼は、《これまで真理と呼ばれてきたもの》は嘘だといっている。そうすると、伝統的な哲学・思想や宗教、道徳・倫理などで考えられてきた真理は嘘だが、そういう彼自身の意見は嘘ではない、ということなのだろうか。それはそうと、こういう矯激な物言いは、《わたしは真理を語ります》という『テレヴィジオン』のラカンを思わせるが、恐らく真理というもののステータスが、ニーチェラカンでは異なっている。

ニーチェは《わたしの真理は恐ろしい》というが、私は、恐ろしいと思ったことがただの一度もないが。