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もし合理的に読解可能で他者に伝達可能な言葉で書くことができないとすれば、そんなものは思想でも理論でも何でもなく、ただのくだらない妄想です。ウィトゲンシュタインは「私的言語は存在しない」と考えました。ソシュールの思想はウィトゲンシュタインとは全く異なりますが、そのソシュールにとっても言語(ラング)は社会的なものでした。ウィトゲンシュタインソシュールに依拠しなくても、少しでも言語をまともに考察すれば同様の結論に到達するはずです。「引用ではなく自分の言葉で思想しろ」などという人は言語のことを考えてみたことが一度もないというだけです。そういうつまらないことをいった人は画家でしたが、画家だから無意味なことをいっても許されるとかいう話でもありません。

「観念」ではなく「言語」というエレメントで考えるならば必ずそうなります。17世紀から19世紀までの哲学は「観念」というエレメントで考えていましたが、そうしますと、個別的で特殊的な観念が存在するという考え方になりました(ヒュームの「印象」やベルクソンの「純粋記憶」)。しかし、「言語」というエレメントで考察しますと、言語はどこまでも一般性しか表現できませんから、個別的で特殊的なこの私の経験などは消失してしまいます。例えば、「あなたが見ている青と私が見ている青は違う」というとします。けれども、青という言葉が表現できるものはどこまでもその「青」という言葉が表現可能な一般性であり、この私が今現に見ているこの青を表現することができませんから、「あなたが見ている青」と「私が見ている青」の違いといったものを、特定の言語体系、今私が挙げた例でいえば2012年における日本語という言語体系において表現することはどうしてもできません。

言語が一般性しか表現できないのは、吉本隆明のように「共同幻想」「個人幻想」「対幻想」などの造語を使うとしても結局同じです。言葉で話す限り必ずそうなりますから、その条件を越えてしまうというようなことはどうしてもできません。

吉本隆明は言語にとって「美」とはなにかというような問題設定をしましたが、ということは、彼にとって問題だったのは言語一般ではなく文学の言語だったということです。その姿勢は晩年の「芸術言語論」に至るまで一貫しています。もし言語一般を考えるとしたら、「自己表出」という概念に到達することはなかったでしょう。吉本隆明ソシュールを検討していながら、最終的に「自己表出」、自己表現に固執したのは、彼がそうでなければ文学の言語、美的な言語を考察できないと思ったからです。けれども話を文学の言語に限定してさえも、「自己表出」、自己表現という概念を基本に考察していいのかどうかは明らかではありません。吉本隆明の考察は日本近代文学の経験に限定されています。20世紀の文学を度外視しています。

それを称賛する人々もいれば馬鹿にする人々もいますが、『言語にとって美とはなにか』は、原始人が初めて海を見て、「ウ」という言葉を思わず発した、というような原初の光景を想定しています。初めて海を見て「ウ」という音声言語を発したというような起源の光景を想定してしまうことが疑わしいというのは当たり前ですが、もし仮にそのようなことがあったのだとしても、それでも、「ウ」と語った瞬間にそれは個別性ではなく一般性です。言語の条件が変わることはありません。

ルソーやコンディアックといった18世紀の哲学者達は言語の起源をしきりに問題にしましたが(ルソーには『言語起源論』という論文があります。20世紀まで余り注目されませんでしたが、デリダが『グラマトロジーについて』で参照したので一般に知られるようになりました)、言語の起源というのは結局分かりません。フッサールメルロ=ポンティのような現象学者はともかく、言語学者構造主義者が言語の起源を問題にすることは普通ありません。なぜならそれは科学的にどう考えてみても確実なことが何もいえないからです。或る特定の言語体系、例えば2012年現在の私が使っている日本語という言語体験が存在することだけは確実ですが、それがいつどのようにして生まれたのかということは幾ら考えてみても結局分かりません。

‎20世紀の思想は言語の起源を問うことを断念するとか、度外視するとか、そもそも「起源を問う」姿勢そのものを問題にしたり批判するというようなことでしたが、そういうことでいいのかどうかはよく分かりません。ただ、私が知っている範囲では、言語の起源について確実にいえることは余りありません。社会的に存在している言語そのものの起源を問うのではなく、例えば、乳幼児がいかにして言語を獲得していくのかというようなことを心理学的に観察したり記述したりすることであればできるでしょう。けれどもそのようなことと言語そのものの起源といった問題は全く別のものです。

例えば現在我々が使う日本語が江戸時代やそれ以前の日本語とはかなり違うというのは、少し古典を読めば分かるでしょう。だから、何らかの変化があったということですが、その変化については慎重に考察する必要があります。文芸批評家や日本近代文学研究者にとって最大の問題は明治の言文一致です。明治時代に大きな切断、転機があったことだけは確実でしょうが、その内実、実態については詳しく専門的に調べなければ分かりません。それに明治の文学者にしても、例えば尾崎紅葉の文章が今日の読者にはひどく読みにくいというのは事実です。二葉亭四迷にしても努力を重ねましたが、『浮雲』の段階では相当苦労しています。はっきりといつとか、誰とかはいえませんが、或る段階で、現在我々が使っている日本語に近いものが形成されたはずです。しかしそうはいっても、そうやって確立された近代的な言語としての日本語と、2012年の我々が使っている日本語が同一であるという保証は何もありません。

少し話がずれますが、橋本治が『桃尻娘』などを書いたとき、1970年代当時の高校生の話し言葉を小説に取り入れたということで話題になりました。けれども2012年の段階で読み直しますと、むしろ、橋本治がもともと研究していた鶴屋南北など江戸の文学者の文学言語の影響があるのではないかと推測してしまいます。ということは、言文一致以前、近代以前の言語を導入したということですから、そのようなものは一般の近代文学とは異質なものだということになります。橋本治に限らず、戦後の或る時期(恐らく70年代から80年代にかけてでしょう)、近代的な日本語の拘束、近代文学の言語の拘束を打ち破るような文章が数多くの作家によって書かれるようになったはずです。当時それは「ポストモダン」などと新しいものだとみなされましたし、それは当たり前のことだったでしょうが、けれどもそれを言文一致で抑圧されてしまった前近代的な多様な言語の復活と見ることもできます。

けれども、少し細かい話ですが、話し言葉、語られる言葉というレヴェルと書き言葉のレヴェルはまた違います。ソシュール言語学が自分の経験科学の対象としようとしたのは話される言語、語られる言語です。彼のいうラングもパロールも話される言語についていわれることですし、「話す主体」「語る主体」を想定しなければ合理的な理論体系の構築もできません。彼にとって言語(ラング)が社会的なもので個々人の思惑を超越したものであったとしても、それでもその言語を実際に話す人がいるという具体的な現実から出発するのでなければ彼の言語学を構築することはできませんでした。そういうソシュールと、その後の言語学者、例えばチョムスキーは全然違います。チョムスキー言語学は語る主体の語られる言葉(パロール)から出発するが最終的に個々人の思惑や発話を超越した社会的実在としての言語(ラング)を想定するといったソシュール言語学とは全く異なり、個々人の内部に言語を生成する能力が備わっているという仮定に依拠しています。そのようなチョムスキー言語学については当たり前ですが賛否両論があります。

話し言葉と書き言葉が違うという話をしたのには幾つか理由があります。まず橋本治が1970年代の高校生の話し言葉を小説の言葉、つまり書き言葉に移植したというようなことについて、もしそういう話が本当であればどういうことなのか吟味する必要があります。それから、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』も柄谷行人の『日本近代文学の起源』も書き言葉、さらに狭く言えば日本近代文学の言語体験だけを取り扱っていますが、もし彼らがソシュールを援用するとしても、話し言葉と書き言葉の差異を無視してしまっているのではないかというようなことを考慮し吟味する必要があります。

ドゥルーズガタリの本が構造主義を批判したことよりも恐らくもっと重要なのは、チョムスキーの基本的な考えを批判したことです。彼らの「リゾーム」、つまり多数多様でどこから入ることも出ることもできるような網の目のネットワークといったアイディアが、樹木(ツリー)モデルへの批判として提示されたということはよく知られていますが、ではその樹木(ツリー)モデルといった発想をしている人は誰なのかといえばそれはチョムスキーです。

ドゥルーズガタリは一方でイェルムスレウの言理学に依拠しつつ、他方で社会言語学の可能性を追求しますが、ソシュールを立ち入って検討することはしていません。それは彼らが「シニフィアン帝国主義」に反対だからでしょうが、社会や個人のありとあらゆる事柄を「シニフィアン」と「シニフィエ」の対で解釈してしまうというような「シニフィアン帝国主義」を樹立したのは構造主義者であって、ソシュール自身には関係がありません。ソシュール自身はただ言語学者であったから言語の問題を考えたというだけであって、まさか後年、構造主義者とかいう人々が自分の概念装置を勝手に濫用して、ありとあらゆる文化事象を「シニフィアン」「シニフィエ」の対で説明しようとしてしまうような乱暴なことをやるとは予想しなかったでしょう。

少しややこしいでしょうが、構造主義チョムスキー言語学の問題はまた違います。当たり前ですが、チョムスキー構造主義者などではありません。確実にいえるのは、言語を考察するというだけのことでも言語学にも多数の立場や意見があるというくらいです。構造主義言語学者といっても、ソシュール構造主義など自称していませんからヤコブソンということになるのでしょうが、そういう人々の考える構造と、チョムスキーが想定する人間内部の言語生成能力といったものはまた全然違います。

田中克彦という言語学者は『チョムスキー』という本をチョムスキー言語学を批判するために書きました。けれども、言語学内部の話を知りませんが、少なくとも当時(数十年前でしょう)、学会ではチョムスキー派が優勢であったようです。ソシュールにこだわる田中克彦は少数派だったのでしょうが、彼の決定的な論点は、ソシュールは現実に語られる言語という現実性のレヴェルで考えるが、チョムスキーが想定する言語生成能力というような話は潜在的な可能性のレヴェルだから、全然違うというようなことです。彼の意見ではソシュールのように事実に即して考えるべきであり、チョムスキーのように経験的な事実を無視して変に「合理的」に考えてしまうのはおかしい、というようなことになります。

けれども私の知る限り、チョムスキーは彼の言語学言語学以外の人間諸科学に全部応用してしまおうといったことを考えた形跡がありません。他方、構造主義者はソシュールが考えた「シニフィアン」「シニフィエ」という対で、文化人類学レヴィ=ストロース)を基礎づけたり精神分析学を基礎づけたり(ラカン)というようなことができてしまえると考えました。でも、しつこいようですが、そういうことはソシュール本人の考えでは全くありません。

現実的にいうならば、「シニフィアン帝国主義」を批判するよりも現実の帝国主義を批判するほうが遥かに政治的に有意義であるというようなことは恐らく誰でも考えることでしょうが、ドゥルーズガタリには構造主義者が「シニフィアン」「シニフィエ」であらゆる人間諸科学を根拠づけてしまおうというような発想が、それこそ「帝国主義的」な傲慢で覇権的なものにみえたというようなことなのでしょう。

ガタリ言語学の素人でしたが、でも言語学マニアでした。彼がこだわっていたのは「言語の外に出る」とかいうことでしたが、彼はそういうことが容易であると考えていました。ごく普通に経験的にいえば、言語の外があるというのは自明ですが、けれども慎重に考えなければならないのは、それ自体では言語ではないような経験、例えば感覚、知覚といった経験も言語に媒介されている可能性が十分にあるということです。例えばヤコブソンが指摘したことですが、虹が幾つの色で構成されているようにみえるかというようなことは、文化拘束的です。文化拘束的というのは、その文化における言語体系に束縛されてしまっているというようなことです。もしヤコブソンのように考え、そしてヤコブソンのいっていることが妥当なのだとすれば、我々はただ単に感覚、知覚する際にすら、言語によって形成される概念的な枠組みを濾過されたものだけを感覚、知覚しているのであって、「なまの感覚、知覚」などは存在しないのだというようなことになるでしょう。

それからガタリがこだわっていたもうひとつのことは、語用論(プラグマティクス)の重視です。2012年の現在の言語学がどうなっているのかは知りませんが、1970年代の段階では語用論は「語用論のくずかご」などと馬鹿にされていました。当時の多くの言語学者にとって、形式的、抽象的に取り扱える言語モデルが問題であって、現実に具体的に話される言葉や、そこにおいてどういう権力関係が作用しているのかというようなことは度外視されてしまっていたのです。けれどもガタリにとってはそういう語用論の具体的な問題のほうが重要でした。だから、ガタリや、ガタリと一緒に本を書いたドゥルーズは、ラボフなどの社会言語学を重視したのです。

さて、午前3時ですから、今晩はこのくらいにしておきましょう。皆様おやすみなさい。どうか良い夢を。