近況アップデート

少し角度を変えますと、もし私が子供の頃から、或いは中学生や高校生の頃から合理性を求めていたなら、数学や自然科学を学んだでしょう。けれども実際にはそれらに興味関心がありませんでした。だから私の知識には大きな欠落があります。理系の知識がないということです。後にドゥルーズを読むようになって、微積分が分からないということで非常に限界を感じましたが、かといって後から微積分だけ学ぶというような器用な真似もできませんでした。大学生になって『差異と反復』を読んで微分の必要性に気付いても、既に中学生で数学を放棄していたので駄目だった、というようなしょうもないことです。

経験科学は進歩するものだといいましたが、そうではないものもあると思います。精神病理学や精神医学です。フーコーはそれらには学問的内容がないのに権力を握っているのが不思議だったと言っていましたが、なるほど学問とか科学といえるような内容はないと思います。最近『解離の構造』を読んでいますが、新しい本ですし最新の精神医学といえると思いますが、しかし、折口信夫民俗学を参照して治療論を展開しているのです。これは経験科学といえるようなものなのだろうか、ということを読みながらずっと考えていました。

経験科学ではないということのほかに、哲学的にいってもごたまぜです。『解離の構造』は現存在分析からラカン精神分析まで援用しています。けれどもそれらを一緒に使ってしまうなどということができるのでしょうか。実践的な治療者としては、現象学ラカンが両立するかといった理論的な問題はどうでもいいのだということでしょうか。そうだとしても、そのように組み立てられた言説によって治療が可能になるのだろうかということは深く疑問です。

神田橋條治のいっていることが少しも合理的ではないということは以前書きました。それでも彼の治療によって患者が驚異的に治っているというのが事実であるならば、それはどういうことなのでしょうか。現代においても呪術医のような存在に意味があるのだというふうに考えるべきなのでしょうか。よく分かりません。

もちろん合理性ということですべて割り切れるというようなものではないということは分かります。私にどうしても理解不能なのは、橋下徹のような人が大衆的に人気だということです。彼のTwitterFacebookに転載されてきたのでしばらく前に読みましたが、本当にびっくりしました。彼のロジック(?)はこうなのです。被災地の瓦礫処理がなかなか進まない→全ては憲法9条のせいだと思っています。とこうなのです。冗談かと思いました。けれども本人は本気のようです。橋下さんを支持する人々はこういう論理の飛躍も支持するのでしょうか。もしそうだとしたら不気味だと思います。安易にファシズムの予感とか言いたくありませんが、橋下さんのような合理性や論理性のない意見が支持を集める社会というのは恐ろしいと思います。もちろん瓦礫処理についてはいろいろ意見があるというのは承知しています。けれどもうまくいかないならばそのすべてが憲法9条のせいだなどというのはもう滅茶苦茶です。それは論理学がどうのという以前の問題だと思います。

前に書きましたが、そもそもスピノザの時代から、大衆が進歩的な政治家を盲目的に虐殺してしまうというようなことがありました。スピノザはそれに怒って抗議しようとしましたが、今外に出て行けばあなたも殺されるだけだと言って彼の友人や支持者らが止めたのです。多数者(マルチチュード)の概念の起源は17世紀の政治哲学、ホッブススピノザにあるといわれます。ただ、彼らが多数者を恐ろしいものだと思い、脅威に感じたというのには理由があると思います。それは多数者が、スピノザの『エティカ』の用語でいえば、「自由な人間」ではないという場合が非常に多いということです。そうだとすれば、多数者が権力を握るというのは、政治的にいってどういう結果になるのかというのは、大体予想がつきます。

それから例えば行動経済学というような最近の考えがあります。それはそれまでの近代経済学が想定していたような完全合理性が現実には成り立たない、限定合理性しかないというような話ですが、そのような自明の事実に経済科学が今頃になってようやく気付いたということにかえってびっくりしてしまいます。パーフェクトに経済合理的に行動する経済人など現実にはいないということなど、すぐに分かるようなことではなかったのでしょうか。もちろん私は経済学、経済科学の専門家ではありませんが、これまで完全合理性を前提にしてきたというほうがかえって怖いというか、そういう「科学」が社会政策や経済政策を左右してきたのかと思うと憂鬱になります。けれどもたとえばケインズのような人であれば、実践的に柔軟であったであろうというようなことは考えます。彼は『一般理論』は書いたけれども、彼にとって重要なのは、自分自身の理論を確立するというようなことではなく、現実の経済政策に介入するといったことでした。

新自由主義の経済学者でベッカー教授という人がいますが、或る時彼の奥さんが自殺をしました。ベッカー教授はしばし考えて、「自殺の経済学」を書きました。つまり、自分の妻は自分との生活を継続する苦痛と自殺の苦痛を経済合理的に比較して、自殺するほうが苦痛が少ないと合理的に判断して自殺をしたのだ、というような話です。これは非人間的とかいうよりもむしろ滑稽です。この話を紹介していた経済学者(新自由主義を批判するような立場の)は義憤に駆られるといった調子で書いていましたが、けれども、もちろん自殺してしまった奥さんは気の毒だと思いますが、そのことに怒るというよりも、むしろ余りの滑稽や不条理に笑う(というか、笑うに笑えない)というようなことだと思います。

過剰に合理的であると却って滑稽になってしまうというのは幾らでもあるような話だと思います。例えば西部さんが、日本の労働者は非常に富裕であると考えるのも、様々な境遇の人々を統計にとって「平均」してしまうとそのような結果になるからです。けれども当たり前のことですが、現実には、年収の非常に高いビジネスマンと、ほとんど収入がない非正規労働者がいます。そのようにまったく違う人々を「平均」し、結果、労働者は富裕だという結論に到達するのはナンセンスなのではないでしょうか。西部さんはそれが経験科学、経済科学であるという信念を持っています。けれども私は、彼とそのような信念を共有できません。私は貧困とか格差が実際にある、と考えます。

精神医学の話に戻ると、既に数十年前の『青年期境界例』がそうでしたが、理論的な整合性があろうとなかろうと使える概念枠組みはなんでも使うというような姿勢がありました。悪くいえば、経験科学としても合理的な根拠が何もないし、哲学的にもごたまぜだということです。それでも治療者としてはそれでいいのだということなのでしょうか。彼らが科学や学問を自称したり、或いは哲学を「導入」するといったことにはどういう意味があるのでしょう。そのように考えてしまいます。

もちろんフーコーの時代と現在では精神病理学、精神医学が握っている権力の質は相当違います。現在でももちろん医者の権力や患者への差別はあります。けれども、昔のように乱暴に無理矢理入院させる、監禁するとか、ロボトミー手術をしてしまうとか、電気ショックをやってしまう(しかも患者本人の同意もなしに)ということは基本的にはないでしょう。だからといって今の精神医療でいいのだという話ではありませんが。

ちなみに電気ショック療法では多くの患者が後遺症(記憶障害など)に苦しみました。哲学者のアルチュセールもそうですし、ピアニストのバド・パウエルもそうです。パウエルが1953年以降別人のようになってしまったという理由はいろいろあるのでしょうが、一つは当時の乱暴な精神医療にあると思います。

それから今思い出しましたが、詩人のギンズバーグの母親はロボトミー手術をされてしまいました。ギンズバーグはそのことを詩に書いています。確か『吠える』だったか『カディッシュ』だったかに入っています。

それから私の印象に残っているのは、長野英子さんの『精神医療』冒頭の話です。ロボトミー手術をされる患者が盛んに恐怖を訴えるのですが(脳を切り取られてしまうのですから当然です)、それを医者が冷酷に「観察」して残酷なことを記録しているというようなことです。確かにそのようなことは本当に恐ろしいと思います。けれどもロボトミー手術を確立した人はノーベル賞を受賞しているはずです。そういうことは、いったいどういうことなのでしょうか。わけがわかりません。

ちなみにそのレインにしても、理論的にはごたまぜというか滅茶苦茶です。彼の考えのベースはサルトルです。けれども、ベイトソンの二重拘束(ダブル・バインド)理論を使ったり、分裂病というのは「旅」のような経験なのだと主張したり、家族、とりわけ母親に精神病の原因があるというような(現在では否定されている)説を立てたり、治療実践がうまくいかないと東洋思想に走ったり、彼の思想的な軌跡を辿ると無軌道という印象があります。中井久夫は、生煮えのものを出してしまう人だという印象を語っていましたが、確かにサルトルがベースであった『引き裂かれた自己』と、東洋に走った(もちろんレインが想像ででっちあげ、捏造したような「東洋」です)後年の著作には整合性や一貫性はまったくありません。

理論的に滅茶苦茶といえばガタリも同じです。彼の『機械状無意識』や『分裂分析的地図作成法』を合理的に「理解」できる人などいるのでしょうか。彼は『機械状無意識』で、ルネ・トムのカタストロフィ理論によれば、「人生をやり直す」ことも可能なのだ(つまり、時間的な因果性を逆転することもできるということです)などと主張していますが、ルネ・トムがどうかというようなことはまったく関係がなく、これはただの妄想、トンデモではないのでしょうか。『分裂分析的地図作成法』についてはいうまでもありません。これは翻訳が悪いとかそういうレヴェルではありません。むしろ私が確認した限り翻訳は非常に正確です。宇波彰が翻訳したとしても翻訳としては慎重であり正確です。けれどももともとのガタリの文章が滅茶苦茶なのです。

その『分裂分析的地図作成法』に症例報告があります。母親の死の喪失によって、或る音域が出なくなった女性の歌手の話です。ガタリは彼女を治療して、或る神話というか物語のような説明に到達します。ガタリは、これは少しも「科学的」ではないかもしれないが、これでいいのだというふうに考えます。私はよくそのことを考えるのですが、なるほど治療としてはそれでいいのかもしれません(その患者がその神話に納得し、それを信じ、そのことによって治っていくならば、ということですよ)。私にはよく分かりません。

『機械状無意識』の後半はプルーストの『失われた時を求めて』の分析です。私自身がろくにプルーストを知らないかもしれませんが、その議論は意味が不明です。ドゥルーズプルースト論を援用したりしますが、まったく違います。ちなみに『機械状無意識』は、私は原書を持っていませんが、しかしその翻訳の日本語が異常に読みにくい訳語を選択しているということはよく分かります。よくもまあ、これだけ読みにくく訳せるものだ、という感想しかありません。

ドゥルーズはあれでも慎ましやかというか、少なくとも単著においてはトンデモなことは言いません。ガタリとの共著でも、ガタリ単独においてはよく分からないような議論をあれこれ図式的に整理して少なくとも「読める」ように纏める努力をしていると思います。ガタリ単独の著作にはそのような「編集」が加わらないので極めて読みにくいということです。最近発掘された(それ自体は貴重だと思いますが)『アンチ・オイディプス草稿』もそうです。それを読むと、現行の『アンチ・オイディプス』のようなものですら、概念的、図式的に随分整理され編集されたものだということがかえってよく分かります。

よく左翼とか活動家とかで、むしろガタリを評価したいというような人々が多くいます。その気持ちはよく分かります。けれども事実をいうならば、ガタリが単独で言うことが意味が不明な場合がかなり多くあります。『三つのエコロジー』は「読める」と思います。けれども『アンチ・オイディプス草稿』、『機械状無意識』、『分裂分析的地図作成法』、『カオスモーズ』を合理的に読解できるとは思えません。

なるほど『カオスモーズ』はフランス語原文も日本語の邦訳も流麗で美しい文章だとは思います。けれどもそれは、『分裂分析的地図作成法』で作られた概念枠組みがもとになった議論です。そしてもともとの『分裂分析的地図作成法』がまったく理解不能です。正確にいえば、序論はいいと思います。本論に入るとわけがわかりません。

先程ドゥルーズが単独ではトンデモを言わないといいましたが、但し「数学の濫用」は除いて、と言い添えるべきでした。

念のためにいえば私は『分裂分析的地図作成法』を理解しようという努力を相当したのです。原書も邦訳も購入して繰り返し繰り返し読みました。結果、理解不能だという結論に到達しました。もし私が悪いのだとしても、これはもう自分の限界であると思います。

間違った類比かもしれませんが、ガタリの概念枠組みは、廣松渉の「四肢構造」や、ハイデガーの「四者方域」を連想させます。けれども私は、ガタリのみならず、廣松やハイデガーの言うようなことも合理的に読む限り余り明晰とはいえないと感じます。「四者方域」では神々と人間と、後二つが何だったか忘れましたが、それらの関係や交流がどうの、とかいうのですが、そもそも「神々」を信じない人はどうすればいいのでしょうか。

ガタリに戻れば、彼の代表作を挙げるならば、『精神分析と横断性』、『冬の時代』(邦題『闘走機械』)、『三つのエコロジー』だと思います。彼が最初に書いた『精神分析と横断性』はなかなかいい論文集だと思います。ガタリには症例報告がほとんどないのですが(精神医療をやっている人としてはこれは相当問題だと感じますが)、『精神分析と横断性』にはちゃんとした症例報告があります。ガタリにおいては本格的な症例報告はこれだけだと思います。『冬の時代』に入っているあれこれはいろいろな意味で面白いです。『三つのエコロジー』の「集団的主観性」という概念は、ガタリが考え出したすべてのアイディアのなかで最も有意味だと思います。但しガタリは、ベイトソンに倣って、「エコロジー」を相当広い意味で使っています。それは環境問題を含みますが、それに限りません。精神や主観性の汚染といったことも考えているのです。その発想は面白いと思います。

『冬の時代』にはフーコーをまともに論じた文章が入っています。私はいろいろな人のフーコー論を比較対照するようなことをしたわけではありませんが、しかし、ガタリの理解や議論はいいと思います。

『冬の時代』を読むと、ガタリが政治的に活動家として真面目であったことがよく分かります。『冬の時代』という題名は、ガタリミッテラン社会党政権に一所懸命協力をしたけれども、まったく駄目だった、という絶望感を表現しているのです。68年革命やその後の革命的な時期に比較して、それが書かれた時代はまったく不毛だというような絶望感が『冬の時代』には込められているのです。だから邦題が『闘走機械』というような意味不明なものになってしまい、しかも本の帯には「元気全開! リゾーム人生!」というような意味のフランス語が記されているというようなことは、はっきりいってとても残念です。私は『冬の時代』には意味があると思うから、余計に残念に思います。

精神のエコロジーベイトソンガタリがいうような)ということでいえば、或る時柄谷さんがNAMのどこかのMLで、資本主義を批判する理由のひとつとして「精神的環境汚染」を挙げていたことがあり、その意味をしばらく考えたことがあります。確かに「精神的環境汚染」、精神や主観性の汚染ということはあると思います。例えばドゥルーズは、フランスのテレビ事情をろくに知りませんが、ともあれ、テレビ番組が残酷さや幼稚さを助長してしまうと考えていました。日本で同じことがいえるかどうかは分かりませんが、一部のお笑い番組には特に意味がないと思えるような残酷さや幼稚さを感じることがあるのは事実です。それに、精神的な環境汚染というなら別にテレビに限らないでしょう。社会に絶望感や無力感などが瀰漫しているならば、それが精神的な環境汚染です。そのような問題を考え、取り組むことには意味があると思います。個人的なサイコセラピーを超えて意味があると思います。

ただ、昔からそう思っているのですが、精神の汚染がどうのということであれば、柄谷さんも人のことを言えないと思います。私の個人的な意見ですが、柄谷さんのやったことの意味というのはこういうことです。一般の貨幣の価値が何に根拠があるのか知りませんが(後に柄谷さんが考えたように、最終的に「金(ゴールド)」に根拠があるなどと本当にいえるのかどうか、経済学の専門家ではない私にはよく分かりませんが)、地域通貨LETSのようなものの価値が、(客観的な経済的「信用」ではなく、むしろ共同主観的な)「信頼」によって担保されているとします。ではそのようなLETSの貨幣としての価値をなくしてしまうにはどうすればいいでしょうか。答えは簡単です。相互不信や猜疑心を助長し、徹底的に信頼関係を破壊し引き裂いてしまえばいいというだけです。そうすれば、いわば「地域通貨インフレ」「地域通貨恐慌」のような事態が生じてしまいます。そのことがQで生じたことの経済的な意味のすべてであると思います。

主観的には正義であったとしても、そういうことを本当に実行してしまった柄谷さんはとんでもないし、もっといえば悪魔的ですらあると思います。柄谷さんは子供のような純真な人で悪意はないというようなことを以前言いましたが、2002-3年当時は例外だったと思います。彼には明白な悪意があり、そしてQを潰すための戦略も方法論もあったと思います。それが先程申し上げた、メンバーの信頼関係を徹底的に破壊してしまうことで、「信頼」通貨の価値をゼロにしてしまう、というようなことです。

もちろんメンバーの信頼関係をパーフェクトにぶっ壊すわけですから、Qに打撃だという以前に、NAMそのものが潰れてしまいました。けれども柄谷さんはそういうことを一切意に介さなかったと思います。それが悪魔的ということの意味です。

さて、午前4時ですね。実は睡眠薬を落としてしまい、紛失してしまいました。睡眠薬なしで眠れるかどうか不安ですが、とりあえずベッドに潜り込むことにします。では、皆さんおやすみなさい。どうか良い夢を。