2012年2月12日(日)のFacebook「近況アップデート」纏め

【2012年2月12日(日)のFacebook書き込みの纏めです。】

おはようございます。朝日新聞朝刊を調べたら、書評とか広告で、読みたい本が沢山、ありました。備忘のため書いておきます。アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』(原章二訳、平凡社ライブラリー)、西郷信綱『古代人と夢』(西郷信綱著作集、記紀研究・古代研究II、平凡社、但し9450円は超高い!)、ハンス・ケルゼン著作集全7巻(慈学社)、『ハンス・ケルゼン自伝』(長尾龍一訳、慈学選書)、『古井由吉自撰作品』全8巻(河出書房新社)、ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(青木創訳、早川書房)、星川一星 aka いしだ壱成『No 原発, One Love!』(青志社)、トニー・ジャット『失われた20世紀』(河野真太郎ほか訳、NTT出版)、雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版)、砂田利一、長岡亮介野家啓一『数学者の哲学+哲学者の数学 歴史を通じ現代を生きる思索』(東京図書)、有島武郎研究会編『有島武郎事典』(...勉誠出版)、黒古一夫編『ヒロシマナガサキからフクシマへ』(勉誠出版)、樋口映美編『流動する〈黒人〉コミュニティ アメリカ史を問う』(彩流社)、柿田秀樹『倫理のパフォーマンス イソクラテス哲学と民主主義批判』(彩流社)、『【復刻版】唯研ニュース 1933-1938年』全1巻(不二出版)、山田恭暉『福島原発行動隊 今、この国に必要なこと』(批評社)、松本雅彦・浅野弘毅編『死の臨床 高齢精神障害者の生と死』(批評社)、浅野弘毅・阿保順子編『高齢者の妄想 老いの孤独の一側面』(批評社)、芹沢俊介高岡健著『「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件』(批評社)、大澤真幸編著『3.11後の思想家25』(左右社)、石井淳蔵マーケティング思考の可能性』(岩波書店)、マイケル・ビッツ『ニューヨークの高校生、マンガを描く 彼らの人生はどう変わったか』(沼田知加訳、岩波書店)、大谷幸生『都市空間のデザイン 歴史のなかの建築と都市』(岩波書店)、フェン・チャー、スザンヌ・ゲルラク編『デリダ 政治的なものの時代へ』(藤本一勇、澤里岳史編訳、岩波書店)、川出良枝、山岡龍一『西洋政治思想史 視座と論点』(岩波書店)、ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』(森村進、鳥澤円訳、岩波書店)、チョムスキー『言語基礎論集』(福井直樹編訳、岩波書店)、新装増補山川菊栄評論篇全8巻・別巻1 第8回第8巻『抵抗のかたち』(鈴木裕子編、岩波書店)、イスラーム哲学とキリスト教中世全3冊・第2回第3冊『神秘哲学』(竹下政孝山内志朗編、岩波書店)、イスラーム原典叢書全12冊・第4回・第4巻『預言者ムハンマド伝 4』(イブン・イスハーク著、イブン・ヒシャーム編註、後藤明、医王秀行、高田康一、高野太輔訳、岩波書店)、花森安治『一戔五厘の旗』(暮しの手帖社)、花森安治花森安治戯文集』全3巻(LLPブックエンド)、『文芸別冊・花森安治 美しい「暮し」の創始者』(河出書房新社)、以上。朝刊だけでこれだけ豊富に情報があるなら、新聞購読する意味はあるかな。

今日はこれから芸音音楽アカデミーのレッスンです。正午頃まで。

休憩です。自分が良い教師か悪い教師かというのは、自分では分かりません。無愛想な先生なのは確かです。私はピアノを弾くだけで余計なことは言いませんから。但し、傲慢かもしれませんが、自分の音楽、演奏にはそれなりに自信があります。念のためにいえば、YouTubeにアップしているような演奏ではないですよ。譜面があるスタンダード、10歳からずっと弾き続けてきた曲の数々です。14歳の頃とは違って、速弾きが良い音楽の条件だとは思いません。その意味では、歳を取って自分は変わりました。14歳、中学生の頃は、クラシックならホロヴィッツ、ジャズならパウエルを聴いて、そういう演奏に接するのは生まれて初めてなので、吃驚仰天したわけですね。だから、当時、自分の音楽を全否定した。しかし、37歳の私はそうではない。パウエルはパウエル、自分は自分、と考えます。非常に淡々としたものです。別に有名にならずとも、「プロ」になれずとも別に構わない。自分は自分の音楽を演奏するだけでいい、そう思っています。

大学生君がドラムを叩いて私はピアノを弾くのですが、少し大袈裟にいえば、毎回、これが最後の演奏かも、と思いながら演奏しています。生徒は芸音をやめるかもしれない。それは彼の自由、権利だし、私はむしろ彼のことを思って、芸音などやめて東京でやっていくほうがいいよ、と言っている。それに、私のほうに、体調が悪化するとかなにかあるかもしれない。ただ、経験からいうのですが、「これを最後に」と思って演奏しても特に意味がない、というか、聴き手にはなにも伝わらないものです。大学に入ったばかりの頃、神奈川の従妹を訪ねたことがありました。私は、会話もせずに、ただひたすらピアノを弾いていた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いたと記憶しています。「これを最後に」とかいっても、なにしろまだ大学生だから、別に自分が死ぬだろうと予感したわけではない。ただ、もう二度と会うことはないだろう、と考えたのです。実際、従兄とも従妹ともその後、二度と会っていません。風の噂でもう二人ともとうに結婚したと聞いています。従妹が働いているかどうか知りませんが、従兄は美容師を開業しているそうです。私は懸命にピアノを弾いたけれども、それで親戚に自分の気持ちが伝わったとも特に思いません。

アカーにいた頃、東大の学生となにかの用事で東大を訪ねたのですが、或る教室にピアノが置いてあった。私はそのときも、「これを最後に」と思って演奏したのですが(セロニアス・モンクを弾いたと記憶します)、だからといって、その東大生になにかが伝達できたとは思わない。気持ちを伝達することができないというのは、致し方がないことだと私は考えます。

レッスン終わりました。従兄、従妹と二度と会えないと考えたならなぜ、ピアノを弾くよりも話をしなかったのか、と不思議に思われるかもしれませんが、私は当時既に、人間の言葉を喋りたくなかったのです。言葉、特に会話を通じて誰かになにかが伝わるとは全く考えていなかった。勿論だからといって、音楽でならばなにかが伝わるのかというと、それは別問題です。実際、従兄、従妹にも、東大生にも、なにも伝わらなかった。しかし私は、それは致し方がないと思う、ということです。

10代からずっとそのように考え、信じてきた自分は暗いと思いますが、しかしそれもまた、致し方がない。

(中略)

しかし、現実問題として、ただこれだけのちっぽけなことを確認するのに丸一日掛かるようでは、哲学などできませんね。非常に疲弊しています。書庫から哲学書を300-400冊出してきて猛烈に読み出したので、父親が、遂に私がなにか凄いことをやり始めたのかと一瞬、期待したけれども、全くそうではないと分かって落胆したようですが、期待に添えなくてとても申し訳がない、済まないというふうに感じます。