Q-NAM会員紳士淑女録/攝津正(元NAM副事務局長)

私は「アソシエ」という組織をよく知らない。が、NAMの起源がアソシエに不満を抱いた柄谷行人ヘゲモニー掌握欲望にあるというのは確実にいえる。当初、NAMではなく、「アソシエK」と名乗っていたが、Kとは「関西」のKであるとともに「柄谷行人」のKでもあった、と飛弾五郎は語っている。アソシエKの時期に準備会に参加していたのは、鎌田哲哉、飛弾五郎、蛭田葵山城むつみであった。が、鎌田は何らかの理由で参加を辞めてしまう。そのことを柄谷行人は怒り、蛭田葵に「NAMを辞めろ」と恫喝を繰り返していた(蛭田葵の証言による)。柄谷行人は批評空間ウェブサイトに『子犬たちへの応答』という誹謗中傷文(到底「批評」とは言えない)を書いて鎌田らを貶めたが、本来の柄谷行人の志向は、鎌田らも含め自分の意のままになる(はずだと彼が私念した)知識人をNAMに囲い込むことだった。

柄谷行人と空閑明大(スペースAK経営)のなれそめについても私は知らない。が、言われるがままに200万円を出資?するなど、かなりの馴れ合い関係があったのは事実である。近畿大学柄谷行人に学んだ乾口達司(倉数茂の証言によれば、彼はかなり軽薄にNAM事務局長の職を引き受けたのだという)が当時NAM初代事務局長だったが、彼は空閑に近い立場であり、二人は共にNAM東京準備会の面々を非難し、空閑は度々柳原敏夫=朽木水に「殺すぞ」などと脅迫電話を掛けてきている(柳原敏夫=朽木水の証言による)。NAM暫定代表柄谷行人による空閑明大及びスペースAK一派の強引な排除過程は確かに民主性の欠如など問題が多々あったにせよ、空閑の側にも大きな問題があったと言える。それは左翼運動にありがちなマッチョな主意主義、「実働」を誇大に語り相手に心理的負債を負わせる悪質なやり口、感情論などであって、要するに健全な知性、批判精神、合理主義が彼らには欠けていたのだ(NAM建築系代表・米正太郎は例外かもしれないが)。

柳原敏夫=朽木水と太田出版社長(当時)の高瀬幸途らを中核とするNAM東京は、基本的にオープンな市民運動志向であり、合理的な考え方を持っていた。が、ここにも躓きがある。NAM事務局の引き継ぎのために高瀬が大阪のスペースAKに赴いた際、空閑明大は最初会員データの引き渡しを拒み、高瀬に高額の金銭を要求したのである。高瀬は値切り、50万円を支払って解決した。──が、そのような「解決」で良かったのか。理由のはっきりしないお金を払い、それを不問に付することで「解決」するよりも、NAM会員登録そのものを一からやり直すくらいの覚悟で臨んだほうが良かったのではないか。また、空閑から強引に言われるままに、スペースAKに100万円を出資したNAM会員もいた。こうした不透明な金銭の流れを放置し、不問に付したのは長い眼で見たら良くなかったのではないだろうか。

とはいえ、私自身はスペースAKに行ったことも、空閑明大らと会ったこともないのだが、スペースAKの実践をきちんと評価し、そこから学ぶことも必要だろうと思う。というのは、私自身もそうだったが、スペースAK問題で揉めた時、スペースAKは早晩潰れるだろうと思っていたが、実際には皮肉にもNAMのほうが先に潰れたからである。柄谷行人は、関西ブントや赤軍などと空閑明大との関係を非難し、新約聖書を引いて「新しい酒は新しい革袋に」と切断を訴えていた。確かに旧左翼、旧新左翼の運動との違いを強調することは、戦略的にも理論的にも必要なことだったかもしれない。だが、実際には、運動は無から立ち上げられるわけではない。既存のもろもろの現実的条件のもとで立ち上げられるのだ。そうした現実条件を鑑みる時、既成左翼とコネクションをそれとして非難することには理由がないし、却って自らを不利にする。NAMは「気分は革命家」のような人(心情左翼)を排除し、冷徹な理論的認識をもって資本と国家の揚棄に取り組むのだとされていたが、そのことは、譬えは悪いが、NAMを革マル派に似た独善の塊りにしてしまった。つまり、偽の超越というか、高みに立って他の運動を偉そうに「批評」するようなエートスを醸成したのである。だが、NAM(会員)にそんな資格などないことは自明だった。むしろ、自らを「市民」だと私念する者らの「左翼嫌い」の或る種の表現形態がNAMだったのである。

乾口達司の後継としてNAM事務局長になった高瀬幸途は、長い運動歴のためか、大変にアイロニカルな態度を取り続けた。彼は、NAMに集まる若い人を見て、これは駄目だと早々に見切りをつけ、沈黙したのである。そして高瀬は、西部忠とその理論(地域通貨)が大嫌いで、資本主義的に成り立つビジネスとして生協運動やフェアトレードを展開せねばならないと常々公言していた。つまり、それがNAM的な営為なのだと。そのように高いハードルを設定する姿勢は山城むつみにも共通して見られたもので、山城はNAMs(学生系)が主催した集会で、生産協同組合をやるには、資本制よりも高い意欲と能力が必要だという主旨のことを言ったと聞いたとがある。が、そんな困難が前提されるなら、運動は広がりようがないだろう。むしろ、能力がない人でも参加できるようなハードルが低い形が求められていたのではないか。NAM会員の多くに見られた卑下は、NAMの理論的要請と自分達の実態のズレのあまりの大きさに由来していた。そのズレに直面しつつ卑下しないでいるには、「ジャンク浪漫派」を自称する倉数茂のような頑固なシニシズムが必要だったろう。

飛弾五郎は太田出版地下室で、私や山城むつみらと共に毎週土曜夜、『NAM原理』読書会を催していたが、LETSを取り上げた回、興味深い出来事が起こった。滔々とmulti-LETS経済圏の夢想を語り始めた蛭田葵に対し、高瀬幸途が小馬鹿にするように一蹴したのだ。高瀬や、太田出版の編集者であった落合美砂らはLETSへの幻想、或いは「信」を全く持っていなかった。Qなどいらないから、酒を飲ませて欲しい、などと言っていたのである(蛭田葵の証言による)。これはNAMという運動が、その当初から、その基本的な前提においてすらも理解や賛否の食い違いがあったことを示している。

柄谷行人は何故アソシエに不満を抱いたのか。本人の口から語られない以上真相は分からないが、柄谷行人はアソシエが活動家や学者らの寄り集まりであることを強く批判していた。では、NAMはそれとは違うというのだから、彼なりの表現で言うところの「統覚」=中心があるということなのだろう。つまり、従来型の「党」=民主集中制的な党ではないが何らかの「党」的なものを目指していたとのことだろう。しかし、NAMにあった「センター」とは、会員登録など雑用やら事務作業の中心であって、重要な意思決定が実質的に為される「センター」は結局のところ、形成されなかった。NAMセンター評議会が「正常」に機能していた時期は全く無かった。このことは、議会主義を否定するNAMが、ママゴト議会とでも呼べそうなチャチな機関を作って自己満足していたということを意味している。つまり、NAM流の社会民主主義ブルジョア議会の全否定は疑わしいということだ。直接行動は必要だとしても、議会に働き掛ける活動(例えば、ロビー活動)がなくていいということにはならない。

柄谷行人はアソシエを批判し、彼なりの仕方で、コミュニズム/アナーキズムというアンチノミー(二律背反)を解決しようとした。その結果出てきたのが、NAM本体は「何もしない」が故に社民的?妥協も一切しないが、NAMそのものとは区別されるもろもろのプロジェクトは幾らでも現実的妥協をしても良い、例えば民主党の議員と会ったりしても良い、という言説だった。が、現実には、実効的なプロジェクトがほとんど立ち上げられず、唯一新しかったQプロジェクトは、NAM本体が潰しに掛かってしまうという醜態を演じた。NAMは「何もしない」どころか、何か行動しようという人の足を引っ張ることしかしてこなかったのである。そんな不健全な組織は、解体するのが当然だ。柄谷行人は、NAMを始めた頃、「アナーキストと対話したい」と言っていた。が、対話どころか、彼はNAMの講演会で(碌に実情を調べもせずに)だめ連を罵倒、否定していた。そんな高飛車な態度で「対話」など求めても無駄というほかないだろう。彼は、コミュニズムという形而上学、「信」を再建しようとしたのだと『トランスクリティーク』で述べている。しかしわれわれに必要なのは、DIY、「低理論」、或いは(こんな言葉があるかどうか知らないが)低-信なのではないか。言い換えれば、好奇心なり愉しみなりの解放ではないのか。活動することそれ自体に伴う喜びの肯定なくして、運動の再建はあり得ないのではないだろうか。

NAMに集った若者らは、観念的というか頭でっかちというか、「本の虫」といったタイプが多かった。勿論私自身もその一人である。事業なり経営なりを積極的にやっていこうという実践的タイプはいなかった。或いは入会してきても、NAMの中に居場所を見出せず沈黙し辞めていった。そうしたことの責任は私などの古参会員にある。真に「先の者が後になり、後の者が先になる」状況を作るためには、組織を風通し良く、革新、刷新、実験を受け入れる余地のあるものに保っておく必要があったが、実際のNAMはそうではなかった。NAMは出来の悪い教団のようなものだった。そこで私は、同年代の他者として、関口洋介、関本洋司、田口卓臣、倉数茂、生井勲、松本治らと出会った。そしてわれわれは、蛭田葵との協力のもと、早稲田に「Cafe-S」なる店を出そうと計画したが、その試みは挫折に終わった。彼らは皆、それなりに知的な人達であったが、商売向きではなかった。勿論、私自身もそうである。NAMの実態は、若く貧乏な者らの自立=自律運動であったと言える。そしてその側面については、私は評価してもいいと思っている。倉数茂や王寺賢太らも強調するように、NAMは全く特異で異例な出会いの場ではあったのだ。しかし、出会ったはいいが、具体的に何をするかというところで躓いてしまった。対外的に何を為すかということ、それが最初から最後まで見えなかった。

続く