ルイ・アームストロング / ザ・ベスト・オブ・ザ・ホット5・アンド・ホット7・レコーディングス

プレモダン

エリントンをプレモダンと言うことには抵抗があります。まず、以前も申し上げたように、私はジャズ総体を近現代の現象ではないかと思っている点。次いで、ジャズの中でも敢えてプレモダンというなら、ルイ・アームストロングのホット5等、ブルーバード栄光の遺産の『ニューオーリンズ・ジャズ』に入っている演奏、(よく聴いているわけではないのですが)ジェームズ・P・ジョンソン、ジェリー・ロール・モートン、ウィリー・ザ・ライオン・スミスなどの演奏を挙げるべきではないか、と思うからです。エリントンの音楽は近代西欧音楽(フランス印象派)から影響されたとも言われており、洗練度は高い。ジャングル・スタイルにしても、菊地成孔が書いていたように、「想像されたアフリカ」という意味合いが強い。とすれば、プレモダンというのは当たらないのではないか、と思うのですが。

ベニー・グッドマン / シング・シング・シング

シング・シング・シング

シング・シング・シング

com-post再読

後藤さんらがやっている、com-postの往復書簡を再読しました。難解な箇所も多かったのですが、ジャズ批評の原理原則、公準を確立しようという試みは、認識そのものの枠組みを問うことになるので不可避的にもろもろの哲学や科学等に言及せざるを得ないということが分かりました。
また議論の反復というか繰り返しも確認しました。例えばめひかりさんとの議論は往復書簡開始の動機にもなっており、最近再現されたそれも基本的な論点は同じように思えます。要するに簡単に解決する問題ではないので堂々巡りにならざるを得ない面があるということでしょうか。
私は世代的なものもあり、80年代/90年代の断絶というのはよく分からないのです。新譜を幅広く聴くというのは経済的な制約もありできません。なので、現在のジャズについて何を分かっているかというと怪しいということはあります。
しかし、以前も申し上げたかもしれませんが、最近の「若手女性ピアニスト」の一群を集中して聴いてみるということはしてみたことがあります。妹尾美里兵頭佐和子宮野寛子松本茜らです。それについては別途投稿しようと思いますが。

チャーリー・ヘイデン / リベレーション・ミュージック・オーケストラ

リベレーション・ミュージック・オーケストラ

リベレーション・ミュージック・オーケストラ

com-post

私が最も興味深く拝読したのは、以下のくだりでした。(後藤さんの発言:Vol.41)

かつてジャズが偉大だった時代、サッチモの、エリントンの、パーカーの、そしてマイルスの音楽に対する「批評のことば」なぞ、極論すれば無くても充分だったのです。彼らの音楽はそれ自体で有無を言わせない力があった。

しかし、現在の「ジャズ」には、そうした力があるとはどうにも思えません。しかしまったく無いと決め付けるだけの根拠もまた、私たちは持っているわけではないのです。今ほど、ジャズ関係者の発言が重要な意味を持ちうる時代は無かったのではないでしょうか。

もはや私たちは、サッチモの、エリントンの、パーカーの、マイルスの、そしてその他の多くの愛すべきジャズマンたちの音楽の、「お客さん」である時代は過ぎたのです。今やそれぞれが一ジャズファンでもある私たちの、生産的批評のことばが、ジャズの命運を左右する状況に至ったと言えるのではないでしょうか。

「かつてジャズが偉大だった時代」は既に過ぎ去ったものと考えられている。典型的なポストモダン状況ですね。そして、「今やそれぞれが一ジャズファンでもある私たちの、生産的批評のことばが、ジャズの命運を左右する状況に至った」というのは、何も賞賛すべき事態などではなく、ジャズそのものの衰弱を意味しているわけです。

確かに新しいピアニストなり何なりを聴くのは愉しいし、それはそれでいいのですが、「かつてジャズが偉大だった時代」とは何かが違っている。それは感覚的に分かります。
それが何であるかはうまく言語化できないのですが…。

先程の投稿で名前を列挙した若手ピアニストについていえば、西欧音楽、特にそのロマン派への抵抗感がほぼ皆無という特徴があるように思います(松本茜を除く)。特に妹尾美里に顕著なのですが、ロマン派的な「美的」なメロディや和声を用いることに何の躊躇いもない。遡ればアキコ・グレースなどもそうなのですが(『ピアノリウム』)、聴いていて、クラシックのピアニストを聴いているのかと錯覚することがある。

それと、例えばバド・パウエルが絶対的だった時代は当然の如く過ぎている。妹尾美里ミシェル・ペトルチアーニを聴いてジャズを志したというし、宮野寛子がフェイヴァリットだというグルーシンやベノワなど名前すら聞いたこともありませんでした。そういう世代が登場しているわけですね。クラシック(念を押すようで恐縮ですが、近世・近代西欧音楽という程度の意味です)とジャズの垣根がなくなっているという印象です。音大、芸大出身でジャズに転向する人が増えていますね。クラシックのピアニストでは食えないが、ジャズピアニストだとまだ若干は食えるということもあるかもしれませんが。

松本茜については別の見方をしなければならないでしょうね。彼女については、アート・テイタムフィニアス・ニューボーン・Jr.への回帰だという批評があるのですが、しかし自分はそうは感じませんでした。私のブログに、彼女を罵倒する人が現われたのですが、私は彼女をぼろくそに貶そうとは思いません。ただ、ジャズピアノのかつてのヴァーチュオーゾやビバップハードバップとは違ったものを聴き取らずにはいられませんでした。
それが顕著なのが、彼女が最近やっている、配信限定のiJazzピアノジャズスタンダード100というソロ録音なのですが、ここで、月に10曲を10ヶ月続けて配信するということをやっている。私はそれを幾つか聴いて、アート・テイタムのパブロでのソロピアノの連続吹き込みと比較することはできないと感じました。敢えて類似物を探すとすれば、ハンク・ジョーンズのグレイト・ジャズ・トリオ。スタンダードを破綻なく無難にこなすのは凄いと思うけれど、それ以上の何があるのか、と思ってしまう。
以上書いたことは悪口ではありません。それどころか、私が仕事を辞めたのは、松本茜の演奏を六本木のソフトウインドというバーで生で観たことが原因なのです。私は最前列、鍵盤に一番近い席で、彼女の演奏を凝視し、自分との隔たりを自覚し、情緒不安定になって退職してしまった。私は批評家ではないから、演奏家の悪口を言う立場にはありません。

ベニー・グッドマン / アイ・ハッド・トゥ・ドゥー・イット【メンブラン10CDセット】

アイ・ハッド・トゥ・ドゥー・イット【メンブラン10CDセット】

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アキコ・グレース / ピアノリウム

PIANORIUM

PIANORIUM

神沢敦子さんに賛同

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1613324201&owner_id=86025
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1614123464&owner_id=86025

深く賛同する。
ところで、アマチュア=カリスマたらんとすれば、「贈与や略奪」(マックス・ウェーバー)で食うしかないことになる。私は今、親の贈与で生きている。未来は?

マックス・ヴェーバー

私は、マックス・ヴェーバーに無知ですが、神沢敦子さんの日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1613324201&owner_id=86025)に付された「ファシスト」ガイスト@千坂恭二さんのコメントには興味を惹かれました。以下にコメントの全文を転載します。

 社会学者のマックス・ヴェーバーは、社会の変革は革命家によってなされるが、革命家とはカリスマ的な存在であると述べ、カリスマとは生計が(つまり収入源が)はっきりしない、言葉を変えれば神秘的な存在であると述べています。収入源がはっきりすると、彼の社会的属性が分かり、彼から神秘性が失われカリスマではなくなるからです。収入源がはっきりしないということは裏を返せば、カリスマとは無収入で食えないことでもあります。革命家にもプロの職業革命家とアマの活動家がいますが、カリスマ度が高いのはプロの職業革命家です。するとここに不思議な事態が生じます。プロの職業革命家は、にもかかわらず、無収入に近く食えないということです。では彼はどうして食っているのでしょうか。ヴェーバーによれば、贈与や略奪で食っているとのことです。現代風に分かりやすくいえば、贈与は、ヒモ、生家の資産の食い潰し、生活保護、カンパあたりで、略奪は犯罪行為でしょうか。
 このヴェーバーのカリスマ定義は、精神的な価値表現に関係した宗教家や思想家、各種表現者(芸術家、作家など)についても部分的にいえると思います。大学がまだ一部エリートの機関であった19世紀では、どんなに優れた思想家でも、大学という一種の生活保護機関によって教授として需要されなければ、食えない流浪の身にありました。マルクスはまったく食えませんでしたし、ニーチェもまともに食えてません。シュティルナーは餓死しています。ワーグナーは晩年にバイエルン国王というスポンサーの登場で助かりましたが、それまでは膨大な借金でヨーロッパ中を逃げ回っていました。
 資本主義的な商品として売れるか売れないかに関わりなく、自己の精神性や何らかの価値を表現しようと思うのであれば、プロとかアマなどはどうでもよく、別に収入源を探せば良いだけの話です。私が20代の頃など、知り合いの前衛舞踏の女性たちは、ヌードダンサーやクラブのストリッパーをしていましたが、私も以前にコピーライターという副業をしたことがありました。自分でも驚くほどの高収入で、思想家がいかに食えないかという現実の裏を見たことがあります。頭がアホになるということでコピーライターは数年で辞めましたが、ヴェーバー的な贈与が不可能ならば、適当な副業をやればいいのではないでしょうか。

シュティルナーは餓死しています。」というくだりで想起したのが、バド・パウエルが栄養失調という痛ましい死を遂げた事、多くのジャズメンがヨーロッパに脱出した事等です。日本でいえば、守安祥太郎や時代はくだりますが阿部薫、批評家ですが間章の死などでしょうか。