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私が最も興味深く拝読したのは、以下のくだりでした。(後藤さんの発言:Vol.41)

かつてジャズが偉大だった時代、サッチモの、エリントンの、パーカーの、そしてマイルスの音楽に対する「批評のことば」なぞ、極論すれば無くても充分だったのです。彼らの音楽はそれ自体で有無を言わせない力があった。

しかし、現在の「ジャズ」には、そうした力があるとはどうにも思えません。しかしまったく無いと決め付けるだけの根拠もまた、私たちは持っているわけではないのです。今ほど、ジャズ関係者の発言が重要な意味を持ちうる時代は無かったのではないでしょうか。

もはや私たちは、サッチモの、エリントンの、パーカーの、マイルスの、そしてその他の多くの愛すべきジャズマンたちの音楽の、「お客さん」である時代は過ぎたのです。今やそれぞれが一ジャズファンでもある私たちの、生産的批評のことばが、ジャズの命運を左右する状況に至ったと言えるのではないでしょうか。

「かつてジャズが偉大だった時代」は既に過ぎ去ったものと考えられている。典型的なポストモダン状況ですね。そして、「今やそれぞれが一ジャズファンでもある私たちの、生産的批評のことばが、ジャズの命運を左右する状況に至った」というのは、何も賞賛すべき事態などではなく、ジャズそのものの衰弱を意味しているわけです。

確かに新しいピアニストなり何なりを聴くのは愉しいし、それはそれでいいのですが、「かつてジャズが偉大だった時代」とは何かが違っている。それは感覚的に分かります。
それが何であるかはうまく言語化できないのですが…。

先程の投稿で名前を列挙した若手ピアニストについていえば、西欧音楽、特にそのロマン派への抵抗感がほぼ皆無という特徴があるように思います(松本茜を除く)。特に妹尾美里に顕著なのですが、ロマン派的な「美的」なメロディや和声を用いることに何の躊躇いもない。遡ればアキコ・グレースなどもそうなのですが(『ピアノリウム』)、聴いていて、クラシックのピアニストを聴いているのかと錯覚することがある。

それと、例えばバド・パウエルが絶対的だった時代は当然の如く過ぎている。妹尾美里ミシェル・ペトルチアーニを聴いてジャズを志したというし、宮野寛子がフェイヴァリットだというグルーシンやベノワなど名前すら聞いたこともありませんでした。そういう世代が登場しているわけですね。クラシック(念を押すようで恐縮ですが、近世・近代西欧音楽という程度の意味です)とジャズの垣根がなくなっているという印象です。音大、芸大出身でジャズに転向する人が増えていますね。クラシックのピアニストでは食えないが、ジャズピアニストだとまだ若干は食えるということもあるかもしれませんが。

松本茜については別の見方をしなければならないでしょうね。彼女については、アート・テイタムフィニアス・ニューボーン・Jr.への回帰だという批評があるのですが、しかし自分はそうは感じませんでした。私のブログに、彼女を罵倒する人が現われたのですが、私は彼女をぼろくそに貶そうとは思いません。ただ、ジャズピアノのかつてのヴァーチュオーゾやビバップハードバップとは違ったものを聴き取らずにはいられませんでした。
それが顕著なのが、彼女が最近やっている、配信限定のiJazzピアノジャズスタンダード100というソロ録音なのですが、ここで、月に10曲を10ヶ月続けて配信するということをやっている。私はそれを幾つか聴いて、アート・テイタムのパブロでのソロピアノの連続吹き込みと比較することはできないと感じました。敢えて類似物を探すとすれば、ハンク・ジョーンズのグレイト・ジャズ・トリオ。スタンダードを破綻なく無難にこなすのは凄いと思うけれど、それ以上の何があるのか、と思ってしまう。
以上書いたことは悪口ではありません。それどころか、私が仕事を辞めたのは、松本茜の演奏を六本木のソフトウインドというバーで生で観たことが原因なのです。私は最前列、鍵盤に一番近い席で、彼女の演奏を凝視し、自分との隔たりを自覚し、情緒不安定になって退職してしまった。私は批評家ではないから、演奏家の悪口を言う立場にはありません。